妻が孫のお祝いの席でいきなり退席。道長の躍進ささえた「源倫子」がキレた“夫の失言”
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第37回は藤原道長の妻、倫子のエネルギッシュな生涯を解説する。 【写真】道長の妻、倫子の曾祖父は宇多天皇。写真は宇多天皇ゆかりの京都・仁和寺
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■「一家立三后」を成し遂げたのは誰? いよいよ、娘の彰子を天皇に入内させるときが来た――。藤原道長も「ここから勝負だ」と気を引き締めたことだろう。長保元(999)年11月1日、彰子が12歳(年齢は数え年、以下同)で一条天皇のもとに入内を果たすと、その6日後の7日には女御宣旨が下された。 もちろん、入内にあたっては、彰子の母で道長の妻である倫子も付き添った。
周囲は倫子の足元にさぞ気を配ったに違いない。というのも、36歳の倫子は妊娠しており、臨月を迎えていたのだ。娘が入内した翌月の12月、倫子は威子(たけこ)を無事に出産している。 威子は道長・倫子夫妻にとって3人目の娘である。 それから7年以上の月日が流れて、寛弘4(1007)年8月、道長は金峯山(きんぷせん)への参詣を行うなど、娘の懐妊を願ってやまなかった。この時点で、すでに入内して約8年の月日が経ち、彰子が20歳を迎えたことも、道長の焦りにつながったのだろう。
一方、44歳になる倫子はその年の1月に、さらに嬉子を生んでいるのだから、ずいぶんと元気だ。倫子はこの嬉子を末子として、道長との間に、2男4女と6人の子を成した。 そして、道長・倫子夫妻の間に生まれた4人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)はみな、天皇や皇太子に嫁ぐことになる。 長女の彰子は一条天皇(第66代)、次女の妍子は三条天皇(第67代) 、続いて威子は後一条天皇(第68代)に入内し、さらに嬉子は皇太子・敦良親王(のちの後朱雀天皇〔第69代〕)のもとに入内している。