妻が孫のお祝いの席でいきなり退席。道長の躍進ささえた「源倫子」がキレた“夫の失言”
嬉子については夫がまだ皇太子の頃に亡くなってしまったので立后はしていないが、彰子・妍子・威子の3人については天皇の后となった。その特異な状況について藤原実資が「一家立三后、未曽有なり」と表現し、後世でも語り草になっている。 「一家立三后」はもちろん、道長の政治力があったからこそ成し得たことだ。だが、この時代に無事に出産し続けた倫子の貢献度もはかりしれないだろう。 いや、むしろ、この夫婦の歩みをみれば、倫子なしには道長が大きく飛躍することはなかったようにさえ思えてくるのだ。
■家格は道長より上だった源倫子 源倫子が道長と結婚したのは、永延元(987)年12月16日のこと。倫子の父である左大臣の源雅信は、当初この結婚に乗り気ではなかったらしい。 それも無理はない。雅信の父、つまり、倫子にとっての父方の祖父が敦実親王であり、雅信の母、つまり、倫子にとっての父方の祖母が藤原時平の娘である。 さらにさかのぼれば、雅信の祖父であり、倫子にとっての父方の曾祖父は宇多天皇だ。その妻、つまり、雅信の祖母であり、倫子にとっては父方の曾祖母にあたるのは、醍醐天皇の生母・藤原胤子である。
一方、藤原兼家の5男として生まれた道長は、右大臣の藤原師輔を祖父に持ち、関白の藤原忠平を曾祖父に持つ。道長自身の位としても従三位、左少将と、駆け出しの公卿にすぎなかった。 娘を「后がね(后の候補者)」として育ててきた倫子の父・雅信からすれば、家格に劣る道長のもとに嫁がせたくはなかっただろう。道長のことを「くちばしの黄色い青二才」とまで言っている。 それでも、道長が倫子と結婚できたのは、倫子の母・藤原穆子(ぼくし)がこの結婚を後押ししたからだ。穆子は賀茂祭や行列などで、道長の姿をみて「この君ただならず見ゆる君なり」と感心していたという。
雅信からすれば、妻がやたらと積極的な様子や、道長の父・兼家の勢いが増してきたのを見て、最終的に道長との結婚を承諾することにしたのだろう。 道長は倫子との結婚によって、広大な土御門邸を継承することになる。また、宇多源氏とつながりを持ち、朝廷内で地位を築く足がかりを作ることとなった。 ■内裏をバタバタする倫子 倫子がいかに夫を支えたかは、道長が残した『御堂関白記』からもよく伝わってくる。 「女方(倫子のこと)も同行した」「女方も内裏に参った」「女方が内裏から退出した」という記述が頻繁に登場し、内裏をバタバタと行き来する倫子の姿が想像される。