妻が孫のお祝いの席でいきなり退席。道長の躍進ささえた「源倫子」がキレた“夫の失言”
寺社への参拝にもよく同行し、娘たちの入内や出産に付き添ったことはもちろん、日頃から娘たちの屋敷にもよく泊まりにいくなど、とにかくエネルギッシュな女性だった。 長徳4(998)年には、倫子は従三位となっている。その背景には、一条天皇の生母・詮子による推挙があった。 藤原行成の日記『権記』によると、詮子は弟の道長の土御門邸や一条邸で世話になっていた。いずれの邸宅も、もともと源雅信から倫子に譲渡されたものであるため、その謝意として、倫子の昇進を一条天皇に申し出たのだという。
すると、今度はそんな詮子に感謝を示すために、道長はもてなしの場を開いて、念珠の筥、装束の筥二合、銀製の手洗・瑠璃の水甁、錦や染絹などを詮子に贈っている。会食のセッティングからお礼の品々の選定まで、そこには妻・倫子の気配りがあったことは言うまでもないだろう。 また、こんなこともあった。寛仁3(1019)年6月9日には「左大臣の藤原顕光が辞任する」という噂が宮廷を駆けめぐり、大臣のポストが1つ空くと、権中納言たちが色めき立った。
道長と倫子の子である藤原教通が新たな内大臣の候補として囁かれるなかで、藤原道長の異母兄に当たる藤原道綱は、倫子にこんな呆れたお願いをしている。 「自分は病もきわめて重く、政務にも堪えられません。ただし、上席の納言として何年も苦労を重ねてきました。うかがった話によれば、左大将の藤原教通を内大臣に任じるとのことですが、私にその内大臣を貸していただけないですか。1カ月ほど出仕して、辞退しようと思います」
道長にかけ合ってダメだったので、妻の倫子にアプローチしたが、やはりダメだったようだ(当たり前だ)。 時に、その人物の性格は「どんなことを言ったか」と同じくらい「周囲にどんなことを言われるような人だったか」に現れたりする。倫子は、周囲からお願い事をされやすい、温和な人柄だったのではないだろうか。 ■倫子が夫に激怒したシンプルなワケ そんなふうにいつも周囲に気配りをした倫子だったが、お祝いの場でいきなり退席して、道長を慌てさせたことがあった。