《ブラジル》記者コラム「日本移民は世界のモデルケース」赤嶺大司教が聖母大聖堂で説く=今こそ役立つ分裂社会統合の経験
戦後に重要な役割果たしてきた日系カトリック界
思えば、1958年に三笠宮ご夫妻をお迎えてして盛大に行われた日本移民50周年記念ミサは、サンパウロ市セントロのセー大聖堂で開催された。勝ち負け抗争などで分断した日系社会の統合を図るため、サンパウロ日本文化協会(現在のブラジル日本文化福祉協会)が創立され、時間をかけて徐々に思想的裂け目が埋められていった時期だ。 当時発刊された機関紙『暁(あけ)の星』を紐解くと、ドナ・マルガリーダ渡辺はもちろん、料理学校経営で知られる佐藤初枝、移民初期に水稲栽培など多角農業経営で成功した鐘ヶ江久之助(きゅうのすけ)、最初の日系連邦議員・田村幸重、二人目の連邦議員・平田進、サンパウロ市配給局長にもなった須貝アメリコらの名前がズラリと並ぶ。1950~60年代の日系社会統合期に活躍した蒼々たるメンバーの多くがカトリックであったことを改めて知らされる。 カトリック信徒で作家の曽野綾子は1960年、国際ペン大会の折にリオを訪問した関係で「日本と対照的なブラジル」との一文を『緑の地平 日系カトリック教会の七十年』(1978年)に寄稿した。彼女は2000年、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れたことでも南米と縁がある。 いわく《日本そのものが、このような繁栄を遂げてきた外側には、世界各国に散らばった日本人への評価と信頼が大きく響いていることは本当だし、またもし海外移民のその国における地位が上がって来たとすれば、それはその方々の努力と同時に、日本という国家の世界的評価が口をきいているのでもある。海外の日本人と、日本に住む日本人とは、いわば車輪の両輪のようなものであって、そのどちらが良くなくなっても快い前進は望めなくなる。 しかし私個人について言えば、私が日本人というもののこせこせした特異性を最初に学んだのは、ブラジルであり、根底から考えさせられたのはインドであり、最後の磨きをかけてくれたのはアラブ諸国であった。その意味で、私は深い恩義を感じている》と締めくくっている。 終戦直後に思想分裂してテロ事件まで起きた日系社会は、どこか今の世界の政治状況にも似ている。赤嶺大司教が言うように、それを統合してブラジル社会建設に貢献した経験を持つ日系社会は、ある意味、今こそ世界のモデルケースとして注目されてもいいのではないか。(一部敬称略、深)