《ブラジル》記者コラム「日本移民は世界のモデルケース」赤嶺大司教が聖母大聖堂で説く=今こそ役立つ分裂社会統合の経験
各地から日系信徒が参集
「世界のみんな兄弟さ♪ 話す言葉が違っても、主に向かう心は、みんな同じ子どもだから」――大聖堂の中に日本語コーラスが響き、無数の日伯旗が振られた。緑色の祭服に身を包んだ神父らが、巨大な十字架を地面に置いた形にレイアウトされた大聖堂の中央部の舞台に立ち、赤嶺大司教が司式した。 今年の巡礼テーマは「マリア、平和の仲介者、平和の元后」で、要所要所に日本語を織り交ぜながら進行され、最後には着物姿の若い女性2人がアパレシーダの聖像をもって順々に4方に掲げ、赤嶺大司教がお祈りの言葉を捧げた。 中央舞台には、日本初の海外派遣布教使としてブラジル日本移民にカトリック布教した中村ドミンゴス長八神父(1865―1940年没)の写真も掲げられた。「尊者」登録運動中でバチカン認定されれば日本移民初だ。これは「聖人」「福者」に次ぐ位階。 中村神父は隠れキリシタンで有名な長崎県五島出身。1923年、教皇庁布教省から依頼をうけて58歳でブラジルに派遣され、サンパウロ州ノロエステ線のプロミッソンなど各地の日系移住地で伝道活動をおこない、最後はソロカバナ線のアルヴァレス・マッシャード市(以後マッシャードと略)を拠点に活動に専念した。 移民初期の20年間だけで長崎教区に属するカトリック信者約170家族(約800人)が移住し、多くは隠れキリシタンの末裔だった。カトリック大国にいけば自由に信仰が出来ると大挙してやってきたが、言葉の問題があり、ポ語ミサが理解出来なかった。そこで、日本から神父を派遣してもらう要請がバチカンに送られ、中村神父がやってきた経緯がある。 当時は交通手段が発達しておらず、重たいミサ用具を詰めた旅行カバン二つをもって馬と徒歩で移動しながら、遠く麻州まで布教して歩いた。中村神父は78市で1750人に洗礼を施した。同神父はブラジル人信徒からも深く敬慕され、それまでは異教徒として蔑視されることが多かった日本移民への見方を変えた人物といわれる。 アラサツーバ在住の大塚みずえさん(82歳、2世)にミサの感想を聞くと、「10回以上参加していますがコロナ後では初めて。今日は合唱隊に入って気持ちよく讃美歌を謳わせてもらいました」とすがすがしい表情を浮かべた。 プレジデンテ・プルデンテから参加した斉藤ルイスさん(75歳、2世)に聞くと、1986年に初参加して以来、PANIBがない年も1~2回巡礼している。中でも8年前からは毎年、聖母大聖堂から360キロも離れたアグア・ダ・プラッタから15日間かけて仲間と共に徒歩巡礼も行う。そんなに何度も巡礼する意義を尋ねると、「ここへ来るたびに信仰が強まる感じがする」と顔を輝かせた。 ミサのあとマッシャードでモンセニョール中村史料館(Museu Padre Monsenhor Nakamura、 R. Vicente Dias Garcia - Álvares Machado, SP, 19160-000)を運営する平田フランシスコさんに今回の感想を聞くと、「日伯旗がたくさん振られていて、今日もとてもきれいだった。コーラスの響きも良かったね。ブラジル人から受け入れられていると実感できる」とほほ笑んだ。平田さんは「神父の業績を思い起こすために、来年3月第2日曜日に中村神父セミナーを開催し、赤嶺ジュリオ大司教も出席される予定なので、ぜひ皆さんもご来場を」と呼びかけた。