ジャンボ鶴田が「日米の偉大なレスラー」力道山とルー・テーズから継承した「プロレスの王道」とは?
鉄人から学んだバックドロップの極意 黒に変身したのを機に、見た目だけでなくフィニッシュ・ホールドも変化していく。それまでの必殺技はデビュー当時からの代名詞の4種類のスープレックスクだったが、同年7月9日の熊本市水前寺体育館におけるキラー・トーア・カマタとのUNヘビー級防衛戦では140㎏の巨体をバックドロップで叩きつけて防衛。9月8日の宇都宮市民体育館におけるジャイアント馬場と組んでのスタン・ハンセン&ロン・バス相手のインターナショナル・タッグ防衛戦でもバスにバックドロップを炸裂させて防衛。 さらに8月1日にハーリー・レイスに奪われたUN王座を奪回した10月24日の北見市体育センターにおけるリターンマッチではフライング・ボディシザーズ・ドロップをフィニッシュ技に使った。 バックドロップもフライング・ボディシザーズ・ドロップも“不滅の鉄人”“20世紀最大のレスラー”と謳われたルー・テーズの得意技なのがミソ。バックドロップ、フライング・ボディシザース、元祖パイルドライバー(投げっ放しパワーボム)は「テーズの三種の神器」と呼ばれていたのである。 この時点での鶴田のバックドロップは、まだ後年のテーズ式ではなかったが、同年暮れの『82世界最強タッグ決定リーグ戦』に特別レフェリーとして来日したテーズに巡業中に指導を受け、さらに翌83年4月30日から世田谷区・砧の全日本の道場で3日間にわたって極意を伝授された。 「私のレスリングの基本はグレコローマン・レスリングで、父親のマーチン・テーズ、コーチのジョージ・トラゴスにグレコローマン・バックドロップを習った。プロになってから1935年にニューヨークをサーキットしていた時、ディック・シカットに相手の股間に左手を差し入れて強引に担いで後ろに投げるスタイルのバックドロップを教えられたこともある。さらに1938年にサンフランシスコに遠征した時にアド・サンテルに柔道の裏投げを教えられた。裏投げはタイミングの取り方、投げるポイントでグレコローマン・バックドロップと共通している。私はサンテルから投げのタイミングを習った。だからグレコローマン・バックドロップ、シカットに教えられたバックドロップに裏投げのタイミングを加味して、私流に完成したのがバックドロップだと思っている」(テーズ) ちなみにテーズが本格的にバックドロップを使い始めたのは1947年頃からで、同年4月25日にミズーリ州セントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを撃破して3度目のNWA世界ヘビー級王座戴冠を果たした時のフィニッシュはバックドロップだった。 その由緒ある技の極意を学んだ鶴田は、1ヵ月半後の83年5月19日、赤穂市総合体育館におけるニコリ・ボルコフとのUN防衛戦で、それまでの高角度バックドロップではなく、低い位置から素早くヘソで投げるテーズ式バックドロップで防衛を果たした。 「それまでいろんなスープレックスをやってたけど、それでも勝てなくて善戦マンと呼ばれていたから、どうしてもジャンボには“これをやったら返されない!”という必殺技が必要だったんだよ。ジャンボには〝ポンポン跳ね返されないように必殺の技として使わないと駄目だよ”って。それで力道山の伝統のシックな黒を引き継いで、チャラチャラした若いプロレスはやめて、テーズ直伝のバックドロップを必殺技に真のトップを目指すという形ができたわけよ」(佐藤) こうして鶴田はファンクスのイメージから脱却し、力道山&ルー・テーズという日米の偉大なレスラーを引き継いだ。まさに王道継承である。 「ある時、ジャンボに“ルー・テーズ張りの本物のバックドロップを見せてくれよ”ってけしかけたら、レイス相手に凄い角度のバックドロップをやっちゃって、試合の後にレイスが日本側の控室に怒鳴り込んできて、ジャンボに向かって“お前、この場でもう1回やってみろ!”って凄んだんですよ。私にはわからないけど、きっと掟破りの投げ方をしちゃったんでしょうね。あれは悪いことをしました」(原) テーズのバックドロップが両足をマットに着いたまま真後ろに投げるのに対し、鶴田の場合は同じヘソで投げるスタイルでも右足を浮かせることが多かった。そこで「何で両足をピタッと着いて投げないんですか?」と、素朴な疑問をぶつけたところ「小佐野君、僕が誰でも彼でも両足を着けるバックドロップで投げたら怪我人が続出しちゃうよ。足を浮かせているのは、相手の受け身の技術に合わせて角度を調節しているんだよ」という答えが返ってきた。それがプロの技術というものだ。 連載記事60本以上、スタン・ハンセン、田上明が「ジャンボ鶴田の素顔」語る動画も収録。『「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」完全版』好評配信中!
小佐野 景浩