近江商人はガメツイばかりじゃない 世間から信用される「三方善」の教え 話の肖像画 ジャーナリスト・田原総一朗<16>
《滋賀県彦根市で製網の事業をしていた田原家は、近江商人の流れをくんでいる。祖母の志げ(明治7年生まれ)から教わった、その精神のひとつに「三方善(さんぽうよし)」があった》 【写真】90歳になった田原総一朗氏の〝遺言〟『全身ジャーナリスト』 近江商人といえば、ガメツイ、ケチといったイメージがあるでしょ。そんなことばかりじゃないんですよ。「三方善」とは、売り手と買い手、そして社会全体が潤う(利益を受けられる)商売のやり方。 生糸の売買や製網の事業に携わった商家の女だった祖母は幼い僕に対して、「人のために尽くしなさい。そうすれば、自分もうまくいく」と口を酸っぱくして話してくれた。商売においては、自分だけが得をするのではなく、お客さんへのサービスが肝心であり、世間からも信用されるようにならないとダメだということでしょうな。 戦後の日本の経済成長を支えた経営者の多くは、この「三方善」の精神を守ってきたんじゃないかな、と僕は思う。 世界に冠たる日本のメーカーも経営トップの報酬は欧米の企業に比べるとケタ違いに低かったでしょう。それは自分だけ、もうけようと思っていないから。従業員の雇用を守ることを大事にして、欧米のようなドラスチックな〝クビ切り〟もやりませんでしたしねぇ。 《祖母の教えはまだある。「運(うん)・鈍(どん)・根(こん)」の話だ》 「運」はいい方がよいに決まっているけれど、それは自分で切り開くもの。そのためには「鈍」になることだ。鈍とは小ざかしいことや要領よくしようとせず、愚直に生きること。そうやって「根」気よく、あきらめずに頑張れば、運は開かれる、と祖母はいう。 この教えを僕は大事にしてきた。とりわけ、おカネの話には今も「鈍感」ですよ。というか、自分のおカネにはまったく関心がないし、どれだけあるのか、も知らない。講演や原稿を頼まれても自分ではおカネの交渉をしたことはないし、極端な話、タダでもやりますから。 (田原家の〝家つき娘〟だった)祖母は美人だったし、矍鑠(かくしゃく)としていて、気が強く、気位も高かった。商家を支えていた兄を早くに亡くし、婿入りしてきた夫(田原さんの祖父、孫助)も僕が小学校2年生のときに、病気で寝たきりになってしまったから、祖母もそうならざるを得なかったのかな。 その分、嫁である母(登志江(としえ))は大変だったと思う。実際に祖母とけんかして実家へ帰ったこともありますねぇ。「父ちゃん(登志江の夫である英次郎)はダメだ。私よりも自分の母(志げ)の味方ばかりして」とよく愚痴をこぼしていたのを覚えていますよ。