稀代のバイプレーヤー・橋本英郎が示唆する新たな監督像。7つのクラブと代表で築いた“カメレオン型指導者”への礎
遠藤保仁の証言「40歳を超えるまでプレーできた理由」
理念やフィロソフィーが備わっていた00年代のガンバだけでなく、混乱期にあった神戸やセレッソ、低迷期の渦中にあったヴェルディ、より上のカテゴリーを目指していく長野や今治、数えて“J5”にあたる京都で脳裏に刻んださまざまな経験が、橋本さんのなかでいまも力強く脈打っている。 「30年前にJリーグができて、カラーがどんどんついてきているクラブと、まだちょっとついてないようなクラブとがあると思うんですよね。カラーがついてきているクラブならば、監督に求められるものは明確だと思いますし、そのスタイルを僕は表現していきたい」 こう語った橋本さんは、自身が去った後のガンバが長谷川健太監督のもとで国内三冠独占を達成した14年シーズンを例にあげながら、フィロソフィーを作る側への挑戦もありうると続けた。 「ただ、これは一人で決められるものではなくて、クラブ全体がそれで納得するというか、それがズレない形で長い期間、そこへ立ち向かっていける人間がいないと難しいと思っています。ガンバも僕らがいたときは攻撃的なサッカーと言ってもらえましたけど、それでも14年のようにタイトルを全部取れたシーズンはなかった。それを考えれば何が本当に正解なのか、というのはクラブ側がまず考える部分であり、そこに関われるのであれば一緒に考えていきたいとは思います」 高校時代は大阪府内でも有数の進学校である府立天王寺高に通い、トップチーム昇格後は大阪市立大学経済学部に通う「二足のわらじ」も貫き通した。指定校推薦で同志社大進学も薦められたが、ガンバの練習場と京都市内にある同大学とを往復するのは難しいと判断した経緯もある。 学業でも優秀さを誇った頭脳こそが、長く現役を続けられた秘訣だと同学年の遠藤は言う。 「すごく身体能力があるわけじゃないけど、それでも40歳を超えるまでプレーできたのは、それだけハッシー(橋本さん)が頭のいい証拠。サッカーを深く理解しているからこそだと思う」