稀代のバイプレーヤー・橋本英郎が示唆する新たな監督像。7つのクラブと代表で築いた“カメレオン型指導者”への礎
カテゴリーが異なる7つのクラブで環境と立場の変化を経験
ポジションに関しては前述した通りだが、ならばさまざまな立場とは何を意味しているのか。 ガンバではまず05年シーズンがあげられる。遠藤保仁と組んだダブルボランチは、同シーズンのリーグ最多となる総得点82、1試合平均2.41ゴールを叩き出す源泉になった。同時に総失点58はJ1が18チーム制になった同シーズン以降の優勝チームのなかで、いま現在も最多となっている。 殴られたら倍返しで殴り返す、超のつく攻撃的なサッカーで、ガンバは07年シーズンのヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)、08年シーズンの天皇杯とAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を立て続けに制覇。09年シーズンにも天皇杯を連覇する黄金時代を迎えた。 12年シーズンに移籍したヴィッセル神戸では、チームの戦い方がなかなか定まらない状況下でJ2への降格と1シーズンでのJ1復帰を経験。J2リーグではセンターバックでもプレーしている。 15年シーズンからは生まれ育った大阪市阿倍野区に近く、十代の頃には下部組織入りも考えたセレッソ大阪へ移籍。しかし、同シーズンから戦いの舞台をJ2へ移していたセレッソの力になれないまま、16年夏にはAC長野パルセイロへ期限付き移籍。初めてJ3の戦いに臨んでいる。 17年シーズンからはJ2の東京ヴェルディへ移籍。この年から指揮を執った、緻密なポジショニングを要求するミゲル・アンヘル・ロティーナ監督のもとで2シーズンにわたってプレーしている。 さらに19年シーズンには当時JFLのFC今治へ、カテゴリーを2つも落とした形で移籍する。元日本代表監督の岡田武史会長のもとで変貌を遂げている今治が地元自治体を巻き込みながら、新たな町おこしの中心になっている状況が決め手になったと当時の橋本さんは明かしていた。 「カテゴリーを下に落とすのは、ある意味で自分のなかでも勇気が必要でしたけど、それ以上にこれだけ地元から愛されているクラブでプレーできる喜びの方が大きい、と思ったので移籍を決断しました。そうしたクラブに自分も関わってJ3へ昇格させていくことは意義があるというか、自分のサッカー人生においても非常に意味のあるシーズンになるんじゃないかと思えたんです」 言葉通りに19年シーズンの今治は、悲願でもあったJ3への昇格を果たす。勝利が求められた大一番で移籍後初ゴールを決めた橋本さんは、22年シーズンからは関西サッカーリーグ1部のおこしやす京都ACへ移籍。ヘッドコーチ兼任の形で1年間プレーした後に現役引退を表明した。