【全豪オープン車いす部門開幕!】小田凱人「骨肉腫を発症して8年、17歳で車いすテニス世界一に。有言実行できたことで、自信にも繋がった」
◆勝つためならどんなことも耐えられる 車いすテニスを始めて3年後、中学1年生の時に、18歳以下の世界No.1決定戦「世界ジュニアマスターズ」で優勝することができました。中学3年生の時には、世界ジュニアランキング1位に。そうしたこともあって、卒業と同時に「プロ宣言」をすることにしたのです。 海外遠征であまり中学校に行けず、このまま高校に進学しても登校できないことはわかっていたので、通信制高校を選ぶことに。 ただ、めちゃくちゃ悩みましたね。友だちは皆、全日制の高校に進学しますし、高校を卒業してからプロになってもいいんじゃないか、って。でも親に背中を押されて、15歳でプロになる決断をしました。父や母は、どんな時でも「お前ならできる」「お前なら勝てる」と常に励ましてくれる。僕が強気の姿勢になったのも、そんな両親に導かれたからだと思います。 車いすテニスが一般のテニスと違うのは、2バウンドまでの返球が許されていることだけ。それ以外はすべて同じです。 ほかの車いす選手は2バウンドを利用して攻めますが、僕はバウンドなしで返球するボレーが得意。常識を覆せば勝利の近道になると考え、技術を磨いてきました。でも、車いすの操作が難しく、体と車いすが一体化する感覚になるまで基礎練習を繰り返す必要があり、それが大変で。 本来僕は、同じ動作を繰り返す練習があまり好きではありません。それでも打ち込めたのは、勝つことへの執念が強かったから。勝つためなら、どんなにきつい練習でも耐えられます。
英語の勉強もしました。学校での英語の授業は全然できなかったけれど、今は優勝インタビューや海外での記者会見は英語で行っています。ただ英語をしゃべればいいというわけではなく、ネイティブな発音ができなければ海外では通用しません。 ジュニアランキング1位になった中学時代、英語の発音が下手なことを欧米の選手から笑われたことがありました。その時、シニアで世界1位になるまでには、絶対にネイティブな発音を身につけようと心に決めたのです。 そのために、日本語を翻訳して英語を学ぶのではなく、英語で英語を学ぶというか、海外で街行く人々の会話に耳をそばだてたり、英語圏の人と積極的に会話したりするようにしました。 彼らの会話はウイットに富んでいるし、ジョークも豊富。それらを理解するには、背景にある文化を理解することも必要です。ホテルに戻ると、覚えた言い回しなどを一人でブツブツ呟いていましたね。 全仏オープンやウィンブルドンで勝った時、優勝インタビューでジョークを交えて喜びを表現したところ、多くの人が笑ってくれたのは嬉しかった。チャンピオンは強いだけでなく、それに相応しい言葉も必要だと僕は思っています。 ただ、負けた時は多くを語りません。23年9月に行われた全米オープンでも優勝を期待されていましたが、1回戦で敗退。その時、敗因はほとんど話しませんでした。言葉にすると、マイナスの要素が脳にインプットされてしまうからです。 その代わり、悔しさを嫌というほど自分に叩き込みました。こんな屈辱を二度と味わいたくない、と。その甲斐あって、それ以降の試合はすべて優勝しています。
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