【全豪オープン車いす部門開幕!】小田凱人「骨肉腫を発症して8年、17歳で車いすテニス世界一に。有言実行できたことで、自信にも繋がった」
◆足が不自由でもできることはある 9歳で骨肉腫と診断されるまで、僕はネイマールに憧れ、プロを目指すサッカー少年でした。 ある日、左脚に激痛を覚え、大学病院を受診すると「すぐに入院してください」と。診断は、骨に発生する悪性腫瘍「骨肉腫」でした。両親はショックを受けていましたが、僕はまだ幼かったこともあり、この病気がどれだけ大変なものかを理解できていなかったように思います。 入院してすぐに、抗がん剤治療が始まりました。9ヵ月間に及ぶ治療は、やっぱり苦しかったですね。でも、僕よりつらそうな子もたくさんいたので、なんとか頑張って乗り越えました。 その後、左脚の股関節と大腿骨を一部切除して人工関節を入れ、左の腹直筋を切り取って太ももに移植するという大手術を受けることになったのです。 人工関節にしたことで、左脚が不自由になってしまったことは本当につらかった。何より、サッカー選手の夢は諦めざるをえなくなったことに落ち込みましたね。でも、僕の夢を知っていた担当医が、障害のある人が行うパラスポーツの存在を教えてくれたのです。そこから「足が不自由でもできることはあるのか」と、入院中にパラスポーツ動画を夢中で観続けました。 その中でビビッときたのが、ロンドンパラリンピックの車いすテニスで金メダルを獲得した国枝さんの試合。とにかくかっこよかった。すぐ両親に、「車いすテニスをやってみたい」と言いました。親はなぜか、車いすバスケをやってほしかったようで、驚いていましたけど。 それからはテニスをやりたい一心でリハビリに励み、退院後10歳で、車いすテニスができる岐阜インターナショナルテニスクラブに入会。自宅がある愛知県一宮市からテニスクラブまでは車で1時間以上かかるのですが、父が送り迎えをしてくれました。 ここで、現在のコーチである熊田浩也さんと出会います。熊田コーチをはじめとするクラブのコーチ陣に出会わなければ、僕の今の成長はなかったはず。入院していた時の担当医が違う先生だったら、パラスポーツに出会っていたかもわかりませんし、人との縁は大事だなとつくづく思います。
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