全編フランス語で挑んだ『不思議の国のシドニ』出演の伊原剛志──「歳を重ねたからこそ何かに挑戦してわくわくしたい」
クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』(06)以降、国内外の映像作品や舞台で俳優として活躍する伊原剛志。最新作『不思議の国のシドニ』では、イザベル・ユペール演じる主人公シドニと惹かれ合う編集者・溝口健三役に抜擢され、フランス語の演技に初挑戦した。常に新たなことにチャレンジし、自由を模索する彼の人生哲学とは? 【写真を見る】観光映画でもある『不思議の国のシドニ』で訪れた場所をチェックする
小説家シドニが初めて訪れた、不思議の国・日本
デビュー小説「影」が日本で再販されることになり、日本の出版社から招聘されたフランス人作家シドニ。寡黙な編集者の溝口に案内され、京都、奈良、直島へと旅をする。旅の途中、亡き夫アントワーヌの幽霊も姿を現し、シドニは人生の新たな一歩を踏み出していく。『ベルヴィル・トーキョー』(11)や『静かなふたり』(17)を手掛けてきたエリーズ・ジラールが監督を務める映画『不思議の国のシドニ』で、シドニを迎え、その旅路に付き添う編集者・溝口をほぼ全編フランス語で完璧に演じたのが、伊原剛志だ。公開待機作『ら・かんぱねら』では、52歳で独学でピアノを始めた佐賀の海苔漁師を演じるべく初めてピアノに触れるなど、新たな挑戦を常に楽しみ続けている。そんな伊原剛志の思考を紐解く。 ■8ヵ月で習得した、フランス語のセリフ ──「8年ほどフランスに住んでいる人のフランス語だ」と評されるほどのレベルだとお聞きしました。フランス語をどうやって習得し、”過去にフランスに留学していた、文学好きな溝口”という人物のリアリティを立ち上げていったのでしょう? 最初は4ヶ月くらい勉強したんですが、1度コロナで撮影が延期になったんです。そこからまた始まったときに3,4ヶ月やりましたから、2年に渡って8ヶ月くらいでしょうか。フランス語は挨拶程度しかできなかったので、覚えるのは大変でしたが、まずはセリフをスピード違いで3パターン吹き込んでもらったものを耳で聞くところから始めました。通訳の方がフランス語も英語も話せる方だったので、フランス語に英語訳を当ててもらい、意味を理解していく作業をしたんです。エリーズ・ジラール監督が僕のフランス語の先生でもあったので、オンラインで監督と直接英語でやりとりをしながら、、一緒につくっていきました。監督は、「流暢でなくてもいいので、溝口というキャラクターが伝わるのを目標にしましょう」と言ってくれたので、段々と溝口が確立していった感じです。 ──途中で中断して再開されたとき、フランス語の感覚は覚えていました? コロナ禍で、正直、僕はもう撮影が流れるのかもしれないと思っていたので、準備は何もしていなかったんです。なのに、自分でもびっくりしたのですが、覚えていたんですよ。体が覚えているんですよね。例えば、昔、僕ら役者が滑舌練習として覚えさせられた歌舞伎の演目『外郎売』のセリフというものがあって、それが何十年経っても勝手に出てくる。そんな状態になっていたのではないかなと。撮影が終わった10ヶ月後に、追加でアフレコがあったのですが、そのときも一回喋り出したらスラスラとセリフが出てきました。当時は、フランス映画を意識的に観ていたので、知っている単語は聞こえてくるようになっていたんですよね。でも、全然喋れないんですけど(笑)。 ──セリフのフランス語が自然だったので、ユペールさんが伊原さんはフランス語を話せるのだと思って話しかけてきたそうですね。 撮影初日に「喋れないんです」と英語で言ったら、「そうなの!?」とびっくりしてましたね。「日本語で全部演じてと言われても私にはできない」と最後にも言ってくれたので、きっとよかったんだなと安心しました。ただ僕はフランス語のニュアンスはわからないから、監督が「大丈夫」と言ってくれたり、現場のスタッフが「ニュアンスがよく伝わる」と褒めてくれたりすることから、少しずつ大丈夫なのだな、と思えるようになっていきました。それでもやはり日本語で話すのとは違うし、自信はなかったけれど、最終的にはもうなんとかなるだろうと思ってやりましたね。 ──イザベル・ユペールさんとの共演はいかがでしたか? 何か印象的なエピソードなどあれば教えてください。 名のある俳優との共演だから緊張するということはなかったのですが、彼女とフランス語で芝居をすることに対しての緊張感は常にどこかにありましたね。でも、現場はとてもスムーズに進んでいたように思います。そういえば、僕には見えていない彼女の夫である幽霊の席を開けるために、タクシーで端っこの席に詰めさせられるシーンで、僕の芝居なのか佇まいなのかが可笑しかったみたいで、ユペールさんはよく笑ってました(笑)」 ■あまり描かれてこなかった、海外の女性と日本人男性の恋 ──溝口という日本の男性像に関しては、どのように感じましたか? 海外、特にフランス映画で、日本人男性役がこんなにふうに良く描かれている映画はあまり見たことがないなと思いました。海外の女性と日本の男性の恋愛ものは、海外の男性と日本の女性の恋愛作品と比べると、割と少ないような気がするので。おかしな日本人という描写ではなく、恋に落ちる相手ですからね。溝口は、主人公であるシドニと同じように心の悩みを抱えている。だから、 彼女が昔書いたデビュー小説にすごく共感を覚え、呼び寄せたいと思ったというところから二人は出会うわけです。でも、僕はこんな感じで背も高く、体も大きいので、シドニは空港でびっくりするんですよね。おそらく、ヨーロッパ人がもっている日本人の編集者に対するステレオタイプ的なイメージは、背が低くて、メガネをかけているような印象だと思うので。もちろん、日本人のステレオタイプのような描写が、本作の中に全くないわけではないです。でも、この映画は監督の体験がベースになっているので、監督が出会った人が溝口みたいな人だったんでしょうね。 ──溝口は、家庭で妻と話をしなくなってしまったというキャラクターですが、もし、実際に伊原さんがバーで溝口と隣り合ったとしたら、どんな言葉をかけますか? 僕もひとりで飲むのが好きだから、まずは話を聞きますかね。彼みたいな状況の人はきっと多いのかもしれませんが、「まあ、そういうときもあるよね」と言うくらいしかできないですね。やっぱり、長く生きていると、自分も色々と経験して、わかることも多いから、軽い言葉で流せなくなる。だから、聞く。「それはこうした方がいいかもよ」みたいなことは、それぞれの人生だから言えないですね。 ──本作でシドニは日本に仕事でやってくるわけですが、異国で仕事をすることは、どんな経験を与えてくれるものですか? 毎回すごく刺激的ですね。映画という共通のツールを通して、異文化の人々と共同作業をするのは面白いです。みんながそれぞれ自分の意見を言い合って、じゃあどうするかをセッションしながら、一番いい方法を選んでいくプロセスはどこにいても楽しいものです。使う言葉は違っても、映画という言語は一緒なんじゃないかなと思うんです。いろんな国で、映画が僕らのコミュニケーションツールになっていると強く感じます。 ■自分にフォーカスを向け、好きなことをやって楽しもうと決めた60代 ──伊原さんは、お金のために仕事をしたくないという理由で長年、飲食店経営というサイドビジネスをされていましたが、2018年に会社を手放されていますね。その理由は、やりたい仕事で生きられるというタイミングになったからなのでしょうか? いや、そんな綺麗なものではなくて、いつまでこれをやってるんだろうと自分でも思っていたんです。ずっと誰かに手渡したいと考えていたので、手放しました。お金のために仕事を選ばないための手段を、実践できましたし、それをやり切ったことは良かったなと思っています。役者の仕事を中途半端にしたことはありませんでしたが、始めた当時は、役者がサイドビジネスをやることをよく思わない方も多かったので。僕はたまたま若い時からロバート・デ・ニーロが好きだったので、そんなふうに言われても、デ・ニーロだって、レストラン『NOBU』をやってるしと思ってました。60歳になった時に、一番下の子どもの大学卒業の見込みもたったし、子育ても一段落したので、いくつまで生きるかわからないけれど、自分にフォーカスを向けて、自分のために好きなことをやって楽しみたいと思ったんです。そして、仕事で自分に関わる人たちを、少しでもハッピーにしたい。そういうスタンスで仕事をやっています。 ──11月6日に61歳を迎えた伊原さんの、人生の一番の楽しみは? 演技することももちろん楽しいのですが、たくさんの人と一緒に何かをつくることでしょうか。皆でつくって、発表して、それでお金ももらえるわけじゃないですか。僕ももう上の世代とされる年齢ですが、若くて才能ある人を見るとすごいなと思うし、若い人と一緒にものづくりをするのも楽しい。次の主演作『ら・かんぱねら』で初めてピアノを弾きましたが、楽しめました。辛いな、できないなと思ったことはあるけれど、 やめたい、なんでこんなことをやらなきゃいけないんだと思ったことはないんです。例えば、自分が全く触ったことのないピアノをやると、ちょっとずつ自分が成長していくのがわかる。それが楽しくて。先生も褒め上手なんですよ。それに、こちらが一生懸命やっていると、周りも一生懸命になってくれるので。 ──常に、初めてのことに挑戦しているから若々しいんですね。フランス語に対してもきっと同じように楽しんでいらっしゃったのかと思います。 フランス語も同じですね。年を取っていくと、自分の手の内も割と増えていくし、引き出しも多くなるので、色々なことがやりやすくなるじゃないですか。だからこそ、新しく何かに挑戦してわくわくしたい。でも、大丈夫かな?と不安になったり、孤独と戦いながらですけど(笑)。 ──楽しんでいらっしゃいますね、人生 子どもたちからもよくそう言われます。彼らが小さい頃から、こんな世の中だから、俺が楽しそうにしていたら、「お父さんはどうして楽しそうに生きてるんだろう?」と考えるだろうし、生きるのは楽しいんだと背中で見せるのが自分の大きな役割だと思っています。 『不思議の国のシドニ』 12月13日(金)シネスイッチ銀座ほか全国順次公開 写真・内田裕介 スタイリング・柴崎篤 ヘアメイク・山岸直樹 取材と文・小川知子 編集・遠藤加奈(GQ)
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