横浜流星演じる2025年NHK大河の主人公・蔦屋重三郎はなぜ、大勢の売れっ子狂歌師を囲うことができたのか?
『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』#1
蔦屋重三郎は版元でありながら、自ら狂歌師となり、江戸中期に盛んだった狂歌のサークルに参加。また「吉原連」というサークルのスポンサーになり、舟遊びや宴会などのイベントを開催した。それは、版元・狂歌師・ファンの読者にとってまさに「三方よし」のビジネスモデルの構築のためだったのだが、その革新的な手段に至った経緯にはどのようなことがあったのだろうか。 【画像】蔦屋重三郎を「風流も無く」と書いた曲亭馬琴の生誕の地 本稿は、車 浮代著『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものをお届けする。
なぜ蔦重は、自ら狂歌師になったのか?
のちに蔦重(つたじゅう:蔦屋重三郎の当時からの略称)のもとで手代をしながら才能を開花させた作家、『南総里見八犬伝』で知られる曲亭馬琴は、蔦屋重三郎のことを次のように書いています。 「顧(おも)ふに件(くだん)の蔦重は風流も無く文字もなけれど、世才人に捷(すぐ) れたりければ、当時の諸才子に愛顧せられ、其資(たすけ)によりて刊行の冊子、皆時好にかなひしかは、十余年の間発跡して一二を争ふ地本問屋になりぬ」(『近世物之本江戸作者部類』) 蔦重は学識がなく、文化的素養を持っていたわけではなかったけれど、人一倍の才覚は持っていて、当時いた多くの賢者たちから愛された。 その結果、出す本がことごとく時代のニーズに合致し、一、二を争う版元としてのし上がった……と。 もちろんアイデア力に優れていたことは確かですが、近くにいた人間からは、「有力な知識人たち皆に愛された」ことが、成功の大きな要因だったように見えたわけです。 『吉原細見』を独占販売することになった1783年、蔦重は江戸の商業の中心地であった日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に、新たな「耕書堂」の店舗をオープンします(1号店は吉原)。 これはハリウッド映画のスケールでいえば、スラム街で生まれた子供がウォール街に本社を構えるようなもの。この店を本店とし、蔦重は江戸一番の版元を目指して躍進します。 そしてこの頃から蔦重は、「蔦唐丸(つたのからまる)」を名乗り、“狂歌師”としても活動してゆくことになります。 もちろん現在も、自ら作家として本を書いたり、句集を作る出版社社長はいますが、それでもレアなケースには違いないでしょう。 曲亭馬琴に「風流も無く」と書かれてしまった蔦重。 数々の文才に囲まれながら、自身の文才が劣っていることは十分に認識していたと思うのですが、それでも狂歌師を名乗ったのには人脈を築く、という意図があったと考えられます。