ACクリエイト創業者 菊地浩司が語る 「映画は人生を豊かにする」映画字幕翻訳の過去と未来
映画やドラマ、ゲームなど様々なエンタメの字幕・吹替版を制作しているACクリエイト株式会社は、1983年、映画字幕翻訳家 菊地浩司が外国映画の日本語字幕版ビデオを作るために仲間を募って、東京・中野で設立された。社名のACとは、前身の英語教室の名称 APPLE ENGLISH CLUBの略称。また、APPLEとは、Active People Progressively Learning English(意志ある人が意欲的に英語を学ぶ)を意味し、さらにAPPLE=リンゴは平和の象徴であり、すべての始まりを表すという。以来40年に亘り、海外の映像文化と日本の観客を結びつけるクリエイティブ・ワークを事業とし、その変化の渦の中で、時代が要求するクリエイティブ・ワークの開発に積極的に取り組んできた。 予告編制作会社バカ・ザ・バッカ代表の池ノ辺直子が映画大好きな業界の人たちと語り合う『映画は愛よ!』、今回は、ACクリエイト株式会社の創業者であり現相談役の菊地浩司氏に、ACクリエイトのこれまでの歩みと映画への想いなどを伺いました。 ・・・ ACクリエイト誕生前の長い道のり 池ノ辺 今回、ACクリエイトさんが40周年を迎えたということで、その創業者である菊地浩司さんに、いろいろお話を伺っていきたいと思います。まずは菊地さんが、映画の翻訳に携わるようになったきっかけ、そこに至るまでのことを教えていただけますか。英語はもともと話せたとか、留学されてたとか。 菊地 いつも聞かれるんだけど、一番のきっかけは学生時代に新宿に遊びに行ってたことかな。新宿には立川の米軍基地の兵隊が来ていたので、よく一緒に遊んでいたんです。彼らは日本語をしゃべらないからこちらが英語で話すしかない。そこから覚えていって、大学を出る頃には日常会話くらいはできるようになってました。 池ノ辺 留学は? 菊地 留学ということではないんだけど、大学を出てからベルギーに行って少し暮らしてたんです。 池ノ辺 なんでまたベルギーだったんですか。 菊地 そもそもの話からすると、当時、唐十郎さんとか寺山修司さんとか、いわゆるアンダーグラウンドの演劇が流行っていた時代なんだけど、先輩が新宿で小さな劇場をやってたんです。一方で映画のマカロニ・ウエスタンがブームだった。そういう空気に触れていて、大学を卒業した僕はヨーロッパに行こう、ローマの映画撮影所、チネチッタに行ってアルバイトして暮らそうと勝手に決めたわけです。1ドルが360円の時代。日本で頑張って稼いでも飛行機になんか乗れないから、横浜から船でシベリアに行ってそこから列車でヨーロッパに向かいました。 池ノ辺 シベリア鉄道!映画みたいですね。でもどうして、そこからベルギーに? 菊地 モスクワからローマに行こうとしたら、ヨーロッパから戻る連中から、ローマではとても稼げないと聞いて、まず北欧に行って皿洗いの仕事でもすれば半年くらいローマで暮らせると勧めてくれたんだけど、わざわざヨーロッパまで来て皿洗いなんてしたくないじゃない? その忠告を半分だけ聞いて、ローマを諦めてロンドンに変えたの。ロンドンのウエストエンドはあの頃のミュージカルの舞台の一つの中心だったから。列車で向かっていたら途中ですごく景色のいいところがあって、それがベルギーだった。結局ロンドンに行ったんだけど大都会は東京と同じようであまり楽しくなくてベルギーに戻りました。 池ノ辺 ベルギーでもアルバイトを? 菊地 皿洗いはやっぱり嫌だなと思っていたら、たまたま知り合ったフランス人の男から、自分が作ったアクセサリーを道端で売ってくれと。やってみたら2、3時間で売れて1万円くらいにはなったんです。これはいけると思って、その男にアクセサリーの作り方を教えてもらって、それを売ることにしました。 池ノ辺 売れたんですか? 菊地 今のお金にして月30万円は稼いでたかな。金持ちだったんですよ(笑)。そこで1年くらい居ました。 池ノ辺 すごい(笑)。その後、日本に戻って最初は塾をやっていたんですよね。 菊地 東京・高円寺でAPPLE ENGLISH CLUBという英語教室をやっていたんです。そのあとACアカデミーという小中学生向けの学習塾を始めました。ACは、APPLE ENGLISH CLUBの頭文字です。一時期は100人以上の生徒がいたんだけれど、周りに大手の塾などもできてきて、数年後にはやっていけなくなりました。 池ノ辺 映画関連の仕事はその後に始めたんですか。 菊地 その前ですね。塾を経営している時にしばらく並行してやっていました。 池ノ辺 どういうきっかけで映画に関わるようになったんでしょう。 菊地 新宿で小劇場をやっていた例の先輩が、そこで映画喫茶を始めたの。ドリンクを売って、その片隅で映画を上映するという形でね。まだビデオもない時代だから、アメリカで家庭で観るのに普及してた16ミリのフィルムを輸入して上映していたんです。でも字幕がないとわからないから、多少でも英語ができるなら字幕を入れてくれということになったわけです。 池ノ辺 そんなことが許されてたんですか(笑)。 菊地 まあ、日本の映画じゃなくてアメリカから取り寄せたものだし、というので日興連なども文句言わなかったのかな。珍しいからと結構話題になっていたと思う。 池ノ辺 そこから映画との関わりが始まったんですね。でも字幕はどうやって入れてたんですか。 菊地 テトラという字幕制作会社があって‥‥。 池ノ辺 知ってます!「テトラのおばちゃん」、神島さんでしたよね。 菊地 そう。その神島さんのところへ行って字幕の入れ方を教えてもらったんです。それで自分で翻訳原稿を作って、そこでパチ打ちをしてもらいました。最初はサイレント映画。チャップリンとかね。あれは喋らないから簡単だった(笑)。 池ノ辺 新宿の喫茶店での16ミリフィルムの字幕入れからはじめて、その後どうやって仕事を広げていったんですか。 菊地 当時、16ミリフィルムを使ってたのはその映画喫茶だけじゃなくて、学校や公民館の上映とか、あるいは海上自衛隊が海の上での娯楽として上映するのも、みんな16ミリフィルムを使っていたわけです。ほとんどは日本映画だったんだけど、洋画を輸入して貸し出す会社もありました。でも、いわゆる劇場用の字幕翻訳をしている先生方は、そんな16ミリの翻訳の仕事はしないですよ。それで、テトラのお母ちゃんが、「こういう仕事があるんだから、あんたやんなさいよ」と紹介してくれて、「ありがとうございます」とやらせてもらいました。 池ノ辺 それで1983年、ACクリエイト株式会社が設立したんですね。