ACクリエイト創業者 菊地浩司が語る 「映画は人生を豊かにする」映画字幕翻訳の過去と未来
字幕翻訳、さらに吹替版制作への進出
池ノ辺 現在は、吹替版の制作にも進出されていますが、これはどういった経緯があったんですか。 菊地 会社として吹替版制作に拡大したのは、ちょっと後で、最初は僕個人が翻訳者として関わり始めたんです。 池ノ辺 これはレーザーディスク(LD)の出現なども関係していますよね。 菊地 ビデオテープの場合は、吹替か字幕か、どちらか一択だったけど、LDの場合は2種類入れられたので、2カ国語とか字幕と吹替とかが可能だったんです。 池ノ辺 それで字幕も吹替も両方やってねということだったんですね。字幕と吹替では、作業としてはどんな違いがあるんですか。 菊地 話を聴くスピードより、文字を読むスピードはちょっと遅いんですよね。だからさっき言ったように字幕は1秒に4文字としたんですが、吹替はその制約がないから、そこでしゃべっていることは全て日本語にしなければならない。それこそ、後ろでしゃべっている声、テレビの中の声、全部です。テレビで何をしゃべっているかなんてわからないから、適当に作って(笑)。だから吹替の方が情報量が多くなります。しかも当時はギャラが吹替の方が安かったんです。かわいそうでしょ(笑)。 池ノ辺 そうだったんですね(笑)。色々大変だったんじゃないですか。 菊地 最初は、VHSに字幕を入れる作業にスタジオが必要で、映画の字幕を入れるラボは、テトラやシネアーツがあったんだけど、例えばテレビで使うようなビデオテープに字幕を入れるノウハウがなかった。当時、そのためのスタジオを持って仕事をしていたのが東北新社で、僕はそこに雇われて一緒になって試行錯誤してたんです。やっていくうちに、これは自分でもできるなと思ったんですね。 池ノ辺 それで自分のスタジオをつくった? 菊地 いや、さすがにいきなりはつくれないですよ(笑)。初めはテレビ局の人と仲良くなって、深夜の空いているスタジオを借りてました。 池ノ辺 事務所の近所に? 菊地 最初の頃は東京都中野区の新井薬師あたりに事務所があったんだけれど、忙しくなってすぐに新橋に移りました。会社設立当初は、社員も少なくて字幕の仕事を月に1本こなせば、会社として食べていけたんだけれど、だんだんそれだけじゃ難しくなって、これは吹替の仕事もできる方がいいとなったんです。 池ノ辺 どこかに習いに行ったんですか。 菊地 行かなかった(笑)。とにかく演出の先生を押さえるのが大変でした。他との関係もあるからね。そこさえ決まればなんとかなる、逆にキャスティングは演出家がやってくれる、そういう状況です。それでも有名な吹替演出の先生が引き受けてくれたので、「やったあ」と思いましたよ。第1作は『グーニーズ』(1985)です。実は、この日本語版ソフトのプロデューサーであるワーナーの小川政弘さんと俺とで吹替に参加してるんですよ(笑)。せっかくの記念だからと言ったら「いいよ」とやらせてくれたんです。クレジットにもちゃんと入ってる。 池ノ辺 昔はそういうことができましたよね(笑)。今なら怒られるかも。現在は浜松町に自社のスタジオもあって、演出家も育って、今や社員70人の大所帯ですね。 菊地 そうは言っても、この業界では後からできた会社だから、最初のうちはテレビ局なんかも相手にしてくれなかったですよ。これじゃあ商売にならないと思って、アメリカ映画の吹替なら日本のテレビ局に営業に行くよりハリウッドに直接行ったほうが早いと思ったのね。それでハリウッドでいろんな人たちと知り合いになって仕事を直接もらえるようになったんです。初めてハリウッドで直接仕事をくれたのがドリームワークス。そのプロデューサーの女性が、日本のテレビの吹替版の、特に女優の声が高すぎてイメージに合わないと思っていたらしくて、そうじゃないものができるなら仕事をあげましょう、となったんです。 日本に帰ってきて、芝居の良し悪しはともかく声だけ原音に合わせろと、そうしてできた仕事が気に入ってもらえて、以来仕事をくれています。 池ノ辺 なんという映画ですか。 菊地 『ポーリー』(1999)。そこから、アメリカのメジャーの吹替は声を合わせるというのが主流になって、そのためにボイステストをするようになった。これはうちだけじゃなくて他の会社もそれが当たり前になって、後から「お前が余計なことをするから」と怒られました(笑)。 池ノ辺 最初に始めるといろいろありますよね。そうして活躍されてきて、相談役になったのはいつですか。 菊地 2020年です。もうそんなに頑張んなくてもいいかなと(笑)。 池ノ辺 これまでやってきて、今、いろいろと思うところがあるんじゃないでしょうか。 菊地 字幕がどんどん邪険に扱われている。それは随分前から感じていることです。そこに割く予算も少ないし翻訳そのものも酷い。これは一つの文化の崩壊ですね。僕はそれが嫌で‥‥このままだったら字幕を観る人はどんどん減ると思っていたら、実際、字幕どころか外国映画を観る人自体が減ってしまっている。日本の映画会社はもっと字幕を大切にすべきだったと思います。今となってはちょっと手遅れかな。 池ノ辺 菊地さんは若い頃から外国に行っていろんなものを吸収してこの映画の世界に入ってきて、それがご自身の翻訳の深さや会社の発展に表れているということなんでしょうね。 今回、ACクリエイトに設立初期から関わってこられた何人かの方たちにも取材させていただきました。 『マトリックス』シリーズやマーベル・シネマティック・ユニバース作品 (MCU) などの翻訳をされた林完治さんは、大学生の時、学習塾のアルバイトから入って字幕翻訳にも携わったそうですね。当時は「カセットテープで音を聴いて翻訳して、フィルムに載せるというシンプルな作業だったけれど、今は翻訳されたものをさまざまな人がチェックするシステムになっているので作業工程が昔より多い」とおっしゃっていました。「翻訳の言葉というのは、その人の生きてきた人生がそのまま反映される。だから同じセリフでも、人それぞれ訳し方が違う。このチェックの仕事を新人に任せることがあるけれど、入ってすぐにできるような仕事じゃない。日本語の意味を深く取るのは本当に難しい。下手すると、正確だけれど面白くない訳になってしまう。英語ができる人は今や腐るほどいますが、翻訳はそれだけでできるものではありません」と語られていました。 あと、字幕翻訳の仕事がしたいと設立間もないACクリエイトの門を叩かれた石田泰子さんは、菊地さんの字幕翻訳者としての仕事ぶりについて、「思い出に残っているのは『ラ・マンチャの男』(1972)です。原稿を拝見するチャンスがあって、読んでいるとまさに血湧き肉踊る。また、クリント・イーストウッドの『ザ・シークレット・サービス』(1993)は、人生を重ね、酸いも甘いも噛み分けた大人の男性の方じゃないとできないような翻訳でした」とおっしゃっていました。 お話しを伺った際に、石田泰子さんに当時の会社の様子を聞いたら、「世の中にこんなにゆるい会社があるのかと驚いた」、「名刺に『始業時間午後2時』なんて書いてあったのよ」と(笑)。同時に、菊地さんには「いいものを作るんだ」という闘志、野心があって、それは設立の頃から変わらずにあると。石田さんご自身の中でも、その言葉が今も小さなかがり火のように燃えていると。そういう思いが引き継がれていくのはすごく素敵なことですね。 では、最後に伺います。菊地さんにとって、映画ってなんですか。 菊地 何よりエンターテインメント。何より楽しい。楽しいだけじゃなくて、ときに涙したり、そういう存在です。これは邦画であろうと洋画であろうと、アニメであろうと、そうです。それから、そこで知らない世界がいっぱい観られる。映画を作る人たちはお利口さんが多いから、いい言葉もいっぱいあって、人生を何倍も豊かにしてくれるものです。
インタビュー / 池ノ辺直子 文・構成 / 佐々木尚絵