グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス
現に「日本的性格について」に登場する都市のたとえは、普遍主義の発想に基づいています。個別主義に立つのであれば、「異なる文化に生きる国民は、それぞれ違った都市に住んでいる。同じ都市を違った角度から見ているように思いたがるかもしれないが、それは錯覚である」と言わねばなりません。ミイラ取りはこうしてミイラになるのです。 続いて文化の「通約可能性」について。どうも九鬼は、言語を使って抽象性や観念性を高めることだけが、文化間の相互理解を可能にすると思い込んでいるふしがある。そのような「翻訳」は、ナマの人生体験から遠ざかってしまうので、実感をもって理解したことにはならないというわけです。
佐藤:しかし論理や観念とは異なる手段で、異文化を理解することもできる。イギリス出身の名演出家ピーター・ブルックは、『鳥の会議』という芝居でバリ島の仮面を使いました。とはいえ欧米の役者が、バリ島の仮面劇の所作をただ模倣しても説得力がない。 そこでブルックの役者たちは、仮面を観察したり、その性質を探ったりすることで、自分と仮面の関係を見つけようとした。その結果、バリ島に伝わる所作とは異なる形で、仮面を使いこなすにいたったのです。役者の肉体を媒介にして、観念と実感を融合できるのが演劇の強みですが、九鬼はこのことを知らなかったのでしょう。
■「偶然の必然化」は覇権志向への道 佐藤:以上の点を踏まえて、日本主義と世界主義に関する議論を検討します。九鬼は両者の関係について、無窮(=永久)の道徳的実践と規定しました。自己の個別性・特殊性を尊重しつつ、異質なものに触れることで自己を解釈し直し、その結果、「個別的なものの総合」たる普遍のあり方も再解釈するというプロセスです。 では、なぜそんなことをしなければならないか。九鬼の言葉を使えば「偶然の必然化」を実現するためです。どんな国の文化も個別性を持っていますが、それが単なる偶然の産物でしかなかったら、そんな文化はあってもなくてもよいことになる。言い換えれば、われわれ自身の存在も、あってもなくてもよいものになってしまいます。アイデンティティを安定させるには、個別性を「偶然の産物」にすぎないものから、必然的なものへと高めねばならない。