グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス
しかし「必然に高める」ためには、おのれの個別性の中に普遍性が宿っていると構える必要がある。普遍性に到達するのは不可能とされているものの、偶然の必然化をめざす行為自体が、普遍性の追求へと不可避的に行き着くのです。けれどもこうなると、十分に必然化された文化は、普遍性を実質的に獲得しているはずだという話になる。 文化は本来、ひとしく偶然的であり、ひとしく個別的です。すべての文化がそれぞれの個別性を持つことで、世界の文化が成り立っている。しかし偶然の必然化をめざすのは、「必然化の進んだ文化は、普遍性を実質的に獲得している点で、偶然性の段階にとどまっている文化に優越する」ことを認めるにひとしい。
ジョージ・オーウェルの『動物農場』に登場した有名なフレーズではありませんが、「すべての文化は平等である。ただしある種の文化は、他の文化よりも、もっと平等である」。特定の文化による覇権が正当化されてしまうのです。となれば、他の文化に属する人々は、覇権的な文化への適応を必然的に求められる。九鬼の議論が、グローバリズムを否定するものになりえたとは到底言えません。 佐藤:20世紀後半のアメリカ文化は、このような覇権的文化の代表格でしょう。「多をもって一となす」というモットーのとおり、同国は「すべての偶然性がここに収斂するのだから、アメリカこそが普遍だ」とする姿勢を取った。そして政治的・経済的・軍事的な覇権に支えられ、この姿勢に相当な説得力を持たせることに成功したのです。
くだんの傾向をいっそう強めるのが、国境を越えた経済活動の高まり。経済を動かすのは「貨幣」という数字ですが、これは言語よりも普遍性が高い。なにせ為替によって、通約可能性が保証されているのです。けれども文化は、よくも悪くも経済を基盤にしなければ成立しえません。 要するに九鬼周造の議論は、狭義の哲学に視野を限定しないかぎり破綻を運命づけられたものであり、したがって国際主義の可能性どころか、その不可能性を浮き彫りにしているのではないかと思います。