グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か 実践しえない「無窮の実践」というパラドックス
なぜかというと、それによって、日本語の語彙が増え、日本語が豊かになるからでしょう。語彙が増えて豊かになるということは、それだけ日本人が日本語で認識する世界が豊かになるということです。もっと言えば、そこまでいかなければ本当の意味で他の文化から何かを「学んだ」ということにはならないと考えていたのではないかと思います。 第1回の記事でもお話ししたように、九鬼は「外来語所感」というエッセイで、外来語を翻訳する努力をせずに片仮名で済ませてしまう風潮を激しく批難しています。これも、国粋主義的な外国語排斥のように思われがちですが、けっしてそうではないと思いますね。
中野:次に、佐藤さんのご意見を伺えますか。 ■『マッドマックス』も「いき」ではないか 佐藤:九鬼周造にはまったく詳しくないものの、古川さんの論文は非常に面白く拝読しました。言語と翻訳の問題をめぐる施さんの発言も、たいへん重要だと思います。 ただし九鬼の思想については、無自覚な前提が議論にいろいろ入り込んでいる印象を受けました。そのせいで論理的に話を展開すればするほど、結論がおかしくなってくるというのが正直な感想です。
では、具体的にどこが引っかかったか。まずは、普遍主義と個別主義の分類が曖昧な点です。九鬼は最初、「いき」の理念自体は普遍的で、欧米人にも理解しうると主張しましたが、その後、「いき」は日本の特殊性のもとに成り立っているので、欧米人にはせいぜい表面をなぞることしかできない、そんな普遍性はニセモノだと主張するにいたりました。 異質な文化が生み出した表現を、ただ模倣してもニセモノに終わる。これは確かに正しい。ただし、そのことをもって「いき」の理念に普遍性はないと結論づけていいだろうか。
「いき」の理念自体は普遍的だが、具体的な表現との対応関係は文化ごとに違っていると考えることもできるわけです。この場合でも、日本流の「いき」の表現を外国人が模倣したらニセモノに終わる。しかしそれは、「いき」の理念を理解できるのが日本人に限られるからではありません。外国人ならば、自国の文化を踏まえた形で「いき」を表現しなければならないのに、それをやっていないというだけの話。 オーストラリアの映画監督ジョージ・ミラーは、代表作『マッドマックス』シリーズについてこうコメントしています。いわく、『マッドマックス』はオーストラリア独自の自動車文化を踏まえたカーアクション映画であり、その意味では特殊性が高いが、英雄神話という点では普遍的だ。物語の舞台が日本だったら、主人公マックスは侍になる。アメリカなら流れ者のガンマン。バイキングの勇士になることもあるだろう。しかし、本質は変わらない。自分が「個別の特殊性」にこだわる立場を取っているという以外に、九鬼はこれを否定する論理を持ちえているのか。