江戸のマネー学 アイデアとおかねを味方につけて「にわか成金」になる方法
誰も考えつかない商売で、元金をつくって両替商になった大坂の母と息子
おかねがおかねを儲けるといっても、まずは元となる、まとまったおかね、元金が要ります。西鶴は『日本永代蔵』巻一「浪風静かに神通丸」にて、大坂の商業の中心地北浜描写し、その北浜を舞台に母と息子の成功を語っています。 大坂・北浜に九州米を陸揚げする際、米刺しからこぼれて、すたり物になる米を掃き集めて、その日暮しをしている老女がいました。器量が悪いので、23で後家になったのに、後夫になってくれる人もなく、一人の倅(せがれ)の行く末の楽しみ、みじめな年月を送っていました。いつの頃だったか、諸国の田租の率が引き上げられて年貢米が増え、米が大量に大坂に運ばれるようになりました。夜昼かかっても陸揚げしきれず、借蔵もいっぱいとなって置き所もなく、あちこちと運びかえるごとに落ちる米をこの老女は塵と一緒に掃き集めたました。朝夕食べてもなお残って1斗4、5升貯まったので、これから欲が出て倹約し、はやその年のうちに7石5斗にも増やして、ひそかに売り、翌年なおいっそう倹約して増やしたので、毎年増えつづけて、20年間に12貫500文を貯めました。 当時、町奉行同心の禄(給与)が、最下層で30俵2人扶持といわれます。老女の貯めた米7石5斗は約21.2俵になりますから、町奉行の最下層同心クラスの3分の2ほどに達していたということです。同心には家事などで雇い入れている人たちへの給与支出があることを考えると、この老女の年収は町奉行同心クラスに迫っていたとも考えられます。 同時に、倅も9歳のときから遊ばせず、桟俵の廃品を拾い集めて銭緡(ぜにさし、銭の穴に通すひも)をなわせて、両替屋・問屋に売らせたました。母は人が思いもよらない銭儲けをして、倅は自分の手仕事で稼ぎを出して、烏金(からすがね)という小判の一日貸しや、はした銀の当座貸しなどで資本を蓄積し銭両替屋を開き、両替商のトップクラスとなったそうです。まさに、「銀が銀儲くること」です。 おかねやモノの集まるところには、なんらかのチャンスがある、大坂・北浜が、まさにそういう場所だったのです。お金持ちになるには、よき人、仕事、そして場所も大切であり、そのうえにおかねの原則を体で覚えることです。 引用:小学館日本古典文学全集『井原西鶴3日本永代蔵』(谷脇理史校注・訳) ファイナンシャルライター・瀧健 監修:井戸美枝