深圳事件の背景には何があったのか? 中国政府が押した「対日批判スイッチ」
歴史は過去のものではない
【安田】中国が集中的に攻撃するターゲットはその時々で変わります。たとえば、2017年ごろに韓国でTHAADミサイルが配備されたときは、韓流ドラマや韓国産の商品、また団体旅行客を徹底的に締め出すなど、ある種の経済制裁が行なわれました。 さらに遡れば、2008年の北京五輪・パラリンピック前には、チベットの人権問題に厳しい姿勢を示していたフランスへの反発が強まり、当時中国に数多く展開していたフランス系スーパー「カルフール」店舗への抗議運動も発生しました。 ただし、韓国やフランスへの攻撃は「それ以上」には発展しませんでした。中国人の日本に対する民族感情は特別で、同じくスイッチを「オン」にするにしても、相手が日本であればギアが簡単に数段階上がり、扇動的な負の言説が人気を集める。そうした前のめりさが、深圳で起きた不幸な事件の背景にも存在します。 なお、今回の事件と歴史との関係を申し上げると、中国では盧溝橋事件が起きた7月7日、柳条湖事件が起きた9月18日、そして中国側が「南京大虐殺の日」と定めている12月13日の前後は、対日感情がきわめてセンシティブになります。 3年前の7月7日にソニーがグローバルで新型カメラの発売を発表しようとしたところ、中国国内で批判の声が上がり、ソニー中国法人が「日付の選択により誤解や混乱を引き起こした」と謝罪して発表イベントが中止となった事件がありました(ソニーは延期の理由を一部部品調達の遅れと説明)。 それだけにとどまらず、ソニー中国法人は現地当局から「中国国家の尊厳を損なった」ことを理由に、100万元(約1800万円)の罰金を科されています。 ここまで日本に関するものにセンシティブに反応する空気は、やはりここ数年の特徴です。本当の意味での歴史への怒りではなく、過去の歴史を材料に再生産されたヘイト的な感情の暴走と認識するべきでしょう。 【益尾】歴史は、過去のものではありません。それがいまの人びとの心にどう映し出されるかが重要です。とくに中国政府は、反日感情の醸成に歴史を利用してきました。私は最近の習近平は、米国との将来の「決戦」に備えなければという気持ちが強すぎると思います。国民を自分たちと同じ方向に向かせるため、いまは米国の同盟国のなかで相対的に攻撃しやすい日本をターゲットに定め、歴史問題を絡めて反日感情を動員しています。 中国はさすがに、米国を完全に屈服させようとまでは考えていません。両者が地球上で棲み分け、共存することは可能です。ですが、自分の隣にいる日本が米国と同盟関係を保ち、自分の周辺で米国の勢力維持に貢献していることには強い不快感を抱いています。 しかも安倍晋三元総理が「台湾有事は日本有事」と発言したように、自分が国是と位置付ける台湾統一に日本は干渉する可能性がある。そうであるならば、いまのうちに反日感情で民衆を団結させ、日米との対抗に備えようというのが中国政府の考えです。もちろん、国内の経済運営の行き詰まりから国民の目を逸らさせる思惑も含まれます。 そうした中国政府のプロパガンダを真に受けて、現地の日本人に危害を加える中国人が現れ始めている現実には、残念と言うほかありません。日本政府には毅然とした対応が求められます。 【安田】他方、今回の深圳事件は中国国内でほとんど報じられていません。日本では中国の過激な愛国者がネットに「もっとやれ」と書きこんだことや、その反対に事件現場に献花に訪れた中国人がいたことが報じられましたが、彼らはいずれも少数派です。中国国内の報道は低調で、ほとんどの国民は事件の存在さえ知りません。 事件を知れば「気の毒」という感想をもつ中国人も多いのですが、近年の中国国内では社会の閉塞感を反映した無差別殺人事件(明代末期の虐殺者・張献忠(ちょうけんちゅう)の名前を取り「献忠事件」と呼ばれている)が多く、深圳事件はそれらの一つという認識。 国際問題としての特別な出来事だと認識する人は多くありません。今回の事件後、中国外交部のスポークスマンが「どの国でも起きる」と発言して日本側で物議をかもしましたが、中国側の感覚ではなかば本気でそう考えているように思います。 【益尾】裏を返せば、中国人にとって反日感情がごく自然なものに変質したからこそ、中国国内ではあえて今回の事件を反日的な言説と結びつける発想がないのかもしれません。とはいえ、仮に中国人の子どもが外国で事件に巻き込まれるようなことがあれば、彼らはものすごい勢いで抗議して政治問題化させるでしょうね。
益尾知佐子(国際政治学者),安田峰俊(紀実作家)