深圳事件の背景には何があったのか? 中国政府が押した「対日批判スイッチ」
深圳で日本人男児が刺殺された事件の背景には何があったのか。国際政治学者の益尾知佐子氏と紀実作家の安田峰俊氏によれば「従来とは異なる現象が背後に存在する」と語る。両氏の対談を『Voice』2024年12月号より紹介する。 三国志やキングダムは好きだけれど、現代中国は嫌になったあなたへ...「中国ぎらいのための中国史」 ※本稿は、『Voice』2024年12月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。
深圳事件の背景に何を見るべきか
【安田】9月18日、中国南部の深圳市で日本人学校に登校中の男子児童が44歳の中国人男性に刺され、翌日に死亡する痛ましい事件が起きました。同日は、満洲事変のきっかけである柳条湖事件が起きた日です。6月の蘇州市の事件(日本人母子が刃物で狙われた襲撃事件)を含め、反日感情が背景にあるのは明白です。 日本の報道では「愛国主義教育」が事件の原因だと解説されがちです。ただし、日中戦争被害を強調する中国の教育は、過去30年以上にわたり行なわれてきた「慢性」の問題です。しかしその間、子どもに刃物を向ける中国人はいませんでしたよね。今回の事件は、従来とは異なる現象も背後に存在すると見るべきです。 その現象とは何か。垂秀夫(たるみひでお)前駐中国大使は事件後、「SNS上の荒廃無稽な動画の影響が大きい」と指摘されていましたが、私も同じ認識です。昨今、中国国内では日本人学校に対して「軍国主義教育が行なわれている」「スパイの活動拠点だ」などの陰謀論的なショート動画が流布しています。 動画は一つ観ると似た内容のものがレコメンドされる仕組みで、過激な思想の人をより過激化させやすい。その性質が中国特有の反日感情と組み合わさり、インプレッション(閲覧稼ぎ)のネタになってもいる。この風潮が、今回の事件の主要な背景の一つだと思います。 【益尾】ジェシカ・チェン・ウァイスという学者によれば、中国政府は民衆にいつも、特定の国や人を攻撃・批判してよいかどうかのサインを出しており、そのスイッチの「オン」と「オフ」を自在に切り替えられるそうです。あの統制社会で過激な動画が放置されているのは、いま反日スイッチが「オン」になっているからです。 習近平国家主席は、じつは当初はスイッチを「オフ」にしていました。彼は、2012年に、中国で尖閣「国有化」の反日デモが燃え盛った直後に中国共産党総書記に就任しています。そのため当初は、民衆のナショナリズムがこれ以上過激化しないよう引き締めていました。 日本の外務省が中国人へのビザ発給要件を緩和すると、中国側も日本に自国の観光客が大量に流れ出すのを黙認し、日中関係は落ち着きを見せるようになりました。もちろん、一定の緊張関係はずっとあったのですが、両国が少しずつ歩み寄ったのは事実で、その間、習近平はスイッチを「オフ」にしていたのです。 しかし数年前、新型コロナウイルスが感染拡大し始めたころから、状況が変わりました。中国が、コロナの発生源の調査を求めたオーストラリアに経済制裁し、「戦狼外交」を展開したことで、中国に対する西側諸国の信頼はガタ落ちします。バイデン政権は米国の同盟網を強化して中国に圧力をかけました。 また中国国内のゼロコロナ政策も徐々に破綻し、習近平政権の統治に綻びが見え始めます。この内憂外患の状況を打開するため、中国政府は西側諸国、とくに日米を痛烈に批判するようになりました。政府に不満を募らせる国民のガス抜きのため、反米反日のスイッチを「オン」にしたのです。 しかも、より弱いほうの日本は中国ではお手軽な攻撃対象にされました。だからこそ、陰謀論めいた反日動画があえて中国のネット空間に置かれ続けている。甚だ不健康な状況です。 【安田】昨年(2023年)8月の福島第一原子力発電所の処理水放出を受けて、中国政府側はさらに対日批判スイッチを押したように見えました。 【益尾】中国海警局の船が日本の領海を徘徊し続けて実際に脅威を与えていますので、日本ではもとから中国に対する警戒心が高いです。ただし、中国が近年、日本に強く反応しているのは、日本がバイデン政権の同盟網強化に大きく貢献してきたからです。中国はたいてい、相手のナンバーワンではなく二番手を攻撃します。 福島第一原発の処理水を「汚染水」と呼ぶなど、これについての言説が中国で固まったのは、2021年4月に当時の趙立堅(ちょうりつけん)報道官が「海洋は日本のごみ箱でなく、下水道でもない」と発言したころです。日米豪印の初の首脳会議が開かれ、日本がインド太平洋地域で米国の同盟網再編に協力するのを見て、これを牽制してやろうという意図だったでしょう。中国が対日政策を方針転換したのは、この時期からだと私は理解しています。