悪質な誹謗中傷で傷つく人がいたとしても、ある程度までは「許容したほうがいい」といえるワケ
大学の文化祭でアルコール飲料の販売を認めてもよいか
ある大学では、文化祭でアルコール飲料の販売を認めるかどうかで大学当局と学生側が議論をしている。大学当局の主張によると、毎年、未成年の飲酒の可能性が指摘されており、また急性アルコール中毒の患者が大学病院に運ばれてくるため、大学病院側からも苦情が出ている。そのため、大学当局は持ち込みも含めてアルコール飲料を一切禁止すべきだと学生側に要求している。 一方、学生側の主張によれば、未成年の飲酒や急性アルコール中毒の予防については一定の取り組みを行っているため、後は(ミルが言うように)個人の自由に任せるべきである。「迷惑」がかかるという理由で自由を抑制することは、学生の自主性を尊重しないことにつながる。 皆さんはどうお考えでしょうか。人によっては、大学病院の救急外来に急性アルコール中毒の学生がたくさん運ばれてくると、他の救急患者の診療が遅れるから、これは「迷惑」どころか、立派な「危害」になる、と言うかもしれません。 どこまでが迷惑で、どこからが危害なのか、というのは『自由論』を読んでもはっきりしないところであります。私の考えでは、ミルが「危害」によって考えているのはかなり狭く、例えば先に見たように、「言論そのものによる危害(言葉が人を傷つける可能性)」を認めているかさえわからないところです。明確に「危害」と呼べるのは、身体的な危害とか、所有物を盗まれるといった、そういう害悪だと言えます。他者へのそうした危害がある場合や、そのリスクが高い場合には個人の自由を制約することが認められます。しかし、それ以外の他人への害悪に関しては、先の引用にあったような偶然的な損害と呼び、実際に損害が生じた場合には補償や賠償が必要になるかもしれませんが、原則は個人の自由を規制しないでおこう、と考えているように思います。 他者危害原則における「危害」をどう定義するかというのは未解決の大きな問題ではありますが、ミルの議論が面白いなと思うのは、個人の自由がもたらす大きな利益を考えるなら、危害と呼ぶかどうかはともかく、ある程度までは社会の方で甘受すべき損害がある、と主張している点です。ここでもミルは社会の側に寛容を求めているように思われます。 この点は、社会全体の幸福の最大化を是とする功利主義的な発想だと言ってもいいところだと思います。ALSの患者に関して、「私なら死ぬ」とか「そうなったら死んだ方がまし」というような発言がSNSでされるとして、それは一部の人々を傷つけることもあるかもしれない、と。場合によってはそういう発言が引き金になって自殺する場合だってあるわけですから発言には重々気をつけないといけません。それでも、言論の自由が持つ効用を考えた場合、そうした発言もある程度までは社会で許容しておいた方が、そうしない場合よりも全体としてよいのではないか、ということをミルは考えていると思います。こうした発言を「危害」と認めるにせよ、そうでないにせよ、功利主義的にはそれを社会として許容した方がよいのではないかということです。
児玉 聡(京都大学大学院文学研究科 教授)