悪質な誹謗中傷で傷つく人がいたとしても、ある程度までは「許容したほうがいい」といえるワケ
ミルの立場に対する批判の検討
皆さんはここまでのミルの議論に納得したでしょうか。ミルの立場に対しては、ミル自身も予想していた重要な批判があります。それは、そもそも「自分のみに関わる行為」というのは存在するのだろうか、という問題です。ミルは他人に危害を加えない限り個人は自由だと言います。しかし、「他人に関わらない行為」というのは存在するのでしょうか。ミルはこのような批判があることを予想し、まずその批判を次のように非常にもっともらしい仕方で述べています。 「以上、人間の生活には、その人だけに関わる部分と、他人にも関わる部分があると区別してきたが、こうした区別を認めない人もたくさんいるだろう。社会を構成する一メンバーのどんな行為も、別のメンバーにまったく関係しないということがありうるだろうか(と彼らは問うに違いない)。彼らの言い分はこうだ。 完全に孤立して生きている人間は一人もいない。人が自分自身に深刻な害、あるいは取り返しのつかない害を与えるようなことをしたら、災いは少なくとも近親者に及ぶし、ときにはさらに広い範囲にまで及ぶ。 もし、自分の財産を損なえば、それを支えにしている人々に直接的ないし間接的に打撃を与える。また、社会の財産を多少なりとも減少させるのが普通だ。(……) もし、その人が悪癖や愚かさで目立てば、たとえ他人に直接的な被害をもたらさなくても、その人はそれでも(やっぱり)悪い見本という形で社会的に有害である。そこで、人々がその人の行為を見たり聞いたりしたせいで堕落しないよう、あるいは道を誤らないよう、その人は自己抑制を強いられざるをえない。(……) もし、子どもや未成年の若者については、明らかに本人に逆らってでも保護すべきであるとすれば、そういう子どもと同じくらい自己管理能力に欠けた成人についても、社会は同じように保護すべきではないだろうか。 もし、賭博・泥酔・淫乱・怠慢・不潔が、多くの違法行為と同様に、幸福を損ね、進歩を妨げるものであるならば、どうして法律は、実行可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、これらの行為も抑制するよう努めずにいられるだろうか(と問えるはずだ)。そして、法律には付きものの不完全さを補うものとして、世論が、少なくともこうした悪を強力に取り締まる体制をつくり、悪いことをする連中に厳しい社会的制裁をくらわせるべきではないだろうか。」(光文社古典新訳文庫『自由論』〈J.S.ミル著、斉藤悦則訳/以下すべて〉194~196頁) まだ続くのですが、ミルはこのように自分の立場に対する反論を強力な形で提示しています。これは先ほど例として挙げた、サトシが仕事がないときはひたすら酒を飲みながらゲームをするような場合です。例えば、サトシは子どもの悪い見本になってしまうから、強制的にゲームをやめさせて、何か有用なことをさせた方がよい、という主張ですね。自殺については、家族や友人など周りの人に大きな影響を与えるだけでなく、典型的には有名人の自殺の場合のように、ウェルテル効果と呼ばれる模倣自殺をもたらすリスクもあります*2。まさに「悪い見本という形で社会に有害である」という点が当てはまるかもしれません。 こういう批判についてどう応答すべきかについては、ミルはすでによく考えています。まず一つは、ミルは各人には酒を飲む自由はあるけれども、いくつか飲酒を規制する根拠はあると言います。例えば先にも述べたように、酒を飲むとサトシが子育てをできずに子どもに対して養育義務を果たせなくなってしまう場合。こういう場合は規制が適切だという風にミルは言います。 「たとえば、ただ単に酒に酔っていることだけで人を罰してはならないが、兵士や警官が勤務中に酔っぱらっていたら罰するべきである。要するに、個人にであれ公衆に対してであれ、明らかに人にダメージを与えるものであれば、あるいは明らかにダメージを与える危険性があれば、それはもはや自由の領域の問題ではなくなり、道徳や法の領域の問題となる。」(199頁) 要するに、飲酒は基本的にプルーデンス(自愛の思慮)の問題だが、飲酒によって他人に対する義務を果たせない状態になった場合は、法や道徳の問題になる、ということです。飲酒運転が禁止されるのも、飲酒そのものが問題なのではなく、飲酒して自動車を運転すると他人にとって危険だから禁止されるわけです。 ミルは続けてこう言います。 「では、偶発的な損害、もしくは、いわゆる見なし損害が生ずるだけの場合はどうだろうか。すなわち、社会に対して果たすべき義務を怠ったわけでもなく、自分以外の特定の個人に実質的な損害をもたらしたわけでもないのに、その人の行為がたまたま社会に迷惑を与えた場合はどうだろうか。 そういう場合なら、社会はこの迷惑を、人間の自由というもっと大きな善のために、甘んじて受け入れることができるはずである。」(199~200頁) この「偶発的な損害(contingent injury)」とか、「見なし損害(constructive injury)」というのが何を指しているのかは、あまりはっきりしないのですが、次のような例が考えられそうです。例えば冬山の登山は危険なので禁止されている地域もありますが、夏であっても登山が普段の生活に比べて危険なことは変わりありません。そういう登山をして遭難した場合に、救助隊が出動したりして、他人に迷惑がかかるような場合があります。場合によっては救助隊のメンバーが命を落とすこともあるかもしれません。しかし、ミルはそういった損害は社会の側が我慢しよう、個人に自由を認めることでもっと大きな利益があるんだから、と主張しています。 ただ、どういう場合が「その人の行為がたまたま社会に迷惑を与えた場合」とされるのかを明らかにする必要があると思います。『自由論』の中ではこれ以上は論じていないのですが、例えば私の身近なところの話題として、ある大学の文化祭でアルコール飲料の販売や持ち込みを認めるかどうか、ということが問題になりました。次の例について考えてみてください。 *2 自殺をめぐる現代の諸問題については、児玉聡『予防の倫理学』(ミネルヴァ書房、2023年)112頁以下を参照。