悪質な誹謗中傷で傷つく人がいたとしても、ある程度までは「許容したほうがいい」といえるワケ
「自殺の自由」
前回記事に続き、「個人の自由」について考えるうえでの練習問題として「自殺の自由」をとりあげます。自殺というと軽い話題ではないですが、自由主義を考える上で重要な話なのであえて取り上げたいと思います*1。もし読んでいて気分が落ち込んできた方は、この記事を閉じて、友人や専門の窓口に相談したり、カウンセリングを受けたりするようにしてください。 ※不安や悩みの主な相談窓口は、こころの健康相談統一ダイヤル(0570・064・556)、よりそいホットライン(0120・279・338)など。 さて、ミルは『自由論』で自殺の話をしていませんが、ここまでの議論を踏まえると、ミルならどのように主張すると思いますか? (1)自殺は自分だけでなく周囲の人に危害を与えるため、他者危害原則によって禁止することができる。 (2)自殺は自分の利益にしか関わらず、他人に危害を与えるとまでは言えないため、各人の自由である。 (3)自殺は自分を殺すことであり、他人を殺すのと同じだけ道徳的に悪いことだから禁止することができる。 おそらくミルの答えは(2)だろうと思います。すなわち、原則として自殺は上記でいうプルーデンスの問題、つまり自分の利害のみに関する「プライベートな問題」であり、道徳とは無関係だと言うのではないかと思います。しかし、ここでは二つの注意が必要です。 一つは、飲酒によって他人への義務を果たせない人は道徳的に問題だとミルは主張していたので、自殺によって子育ての義務などを放棄したと考えられる場合には、その限りで他人に危害を与えているとミルは主張する可能性があります。これは、単に自殺によって周りの人々が悲しむというに留まらず、約束を守らないとか、責任を果たさないという問題です。 しかし、逆に言えば、自殺によるそうした義務の不履行がほとんど考えられない場合は、自殺は道徳の問題ではないとミルは言うでしょう。例えば重い病気でまもなく死ぬことがわかっているため、医師に処方された致死薬を服用して死ぬという医師幇助自殺のような場合は、仮に子どもの養育義務があったとしてもいずれにせよ義務の履行はできないため、死ぬことは他者危害にならないと言えそうです。 もう一つは、「自殺をするかどうかはプライベートな問題である」としても、周りの人は説得を試みる自由があり、おそらくは説得に努める義務さえもあるということです。仮に自殺が他人に危害を与えないという意味で道徳の問題ではないとしても、自殺する本人が数ある行為の中で自殺を選ぶことが賢明なことなのかそうではないのかについて、他人が助言することは十分に適切だと思われます。 大学に進学するか、そうせずに音楽の道を目指すかというのはプライベートな問題でしょうが、家族や友人たちが将来の見通しについて助言することは問題ないと思われます。それと同様に、自殺を考えている人に対しても、なぜ自殺をしようと思っているのか、それは当人の利益だけを考えた場合でも賢明と言えるのか、それとも愚かな選択と言うべきかについて検討することが重要だと、ミルなら言うのではないかと思います。 *1 自殺や安楽死が自由主義においてどのように論じられるかについては、山田卓生『私事と自己決定』(日本評論社1987年、第13章、第14章)や児玉聡『実践・倫理学』(勁草書房、2020年、第4章)を参照。