ライバルの朝日記者はこの前まで大学で教授を吊るし上げていた活動家だった 元産経記者が語る「メディアの左傾化」
早稲田と革マル派の深い関係
当時、早稲田祭実行委員会は革マル派が仕切っているとも囁かれていた。来場者数は延べ20万人にも及ぶといわれる早稲田祭に入場するには、パンフレットを当時、500円で購入しなければならなかった。これが革マル派の多大な資金に化けたことは想像に難くない。 政経学部の学生委員会も革マル派の影響力が強いといわれていた。1972年には中核派とみなされた早稲田大の第一文学部の学生が、角材などで革マル派の学生に滅多打ちにされて死亡した事件も起きている。 僕の卒業後、1994年に早稲田大学総長に就任した奥島孝康教授は、革マル派の排除に乗り出した。1997年には千葉市中央区にある早稲田大学法学部教授の自宅の電話が革マル派に盗聴される事件が発覚し、警視庁は革マル派非公然活動家10人を指名手配した。1997年から2001年まで早稲田大学は早稲田祭を中止する措置を取った。
新聞記者が労組の職員に
Nくんとはそれなりに仲が良かったが、彼はほどなくして朝日を辞めた。 それから10年以上経ったある日、国税担当になった僕は、ある全国的な組織を持つ労働組合が東京国税局査察部に強制調査(査察)を受けた際、国税や特捜部の係官が段ボールを押収して車に積み込むおなじみの写真を撮ろうと、その組合に急行した。建物の外で推移を見守っていたら、何とNくんが出てきたではないか。 「おうっ、N、ひさしぶりじゃないか」 と言ったら、彼はバツが悪そうに、 「カネの話は抗弁できない。取材は拒否だ」 と苦笑いを浮かべて建物の中に消えた。何と朝日を辞めて、労組の職員になっていたのだった。 毎日の女性記者はその後も毎日にいて、特派員として活躍している。 彼女がデスククラスにでもなれば、新入社員を採用する一次試験の面接担当官くらいにはなるだろう。また左派系の学者のゼミに入っていて、その担当教授から推薦をもらって朝日や毎日の面接を受けている学生は多いだろう。こうして左派系のある意味で「色のついた学生」の系譜は絶えることなく続いていくのだと思う。 朝日や毎日新聞の記者の中には、明らかに活動家系の記者がいる。その記者が事件を担当する官庁を経験したという話は寡聞(かぶん)にして知らない。別に事件持ち場をやらなければ新聞記者ではない、といった時代錯誤なことを言うつもりはない。ただ、その記者が書く記事、書く記事、いつもそうした「界隈の人々が喜ぶ記事」ということは、その記者はそれ以外に書きたい記事はないのだろうか、と邪推してしまう。 *** 実は記者個人の性向とは別に、記者クラブの記者たちには、ある種の「偏り」を持ってしまう事情があることに三枝氏は気付く。どうしても「市民運動」ネタが増えてしまうのだ。 そのウラ事情については、後編で。
三枝玄太郎(さいぐさげんたろう) 1967(昭和42)年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1991年、産経新聞社入社。警視庁、国税庁、国土交通省などを担当。2019年に退職し、フリーライターに。著書に『三度のメシより事件が好きな元新聞記者が教える 事件報道の裏側』『十九歳の無念 須藤正和さんリンチ殺人事件』など。 デイリー新潮編集部
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