ライバルの朝日記者はこの前まで大学で教授を吊るし上げていた活動家だった 元産経記者が語る「メディアの左傾化」
冤罪のデパートとしての静岡
研修が終わると、1年生は地方支局に出される。実家が当時は横浜市内にあったので、横浜総局には行けないルールだ。それならば、静岡を希望しようと思った。 というのも、静岡県は戦後、死刑に値する重大な殺人事件で無罪判決を続けて出していた。弁護士や救援団体は「西の山口、東の静岡」とか「静岡県警は冤罪のデパート」などと蔑称していた。 僕は高校時代から冤罪事件に魅せられていた。大学卒業時の旅行は「全国著名冤罪事件ツアー」だった。早稲田の政経学部で同じクラスだった仏像好きの友人を誘い、尾道の千光寺に行くという交換条件で九州まで往復した。島田事件、豊橋事件、財田川事件、八海(やかい)事件、免田事件と西進して現場を回った。 それくらいのオタクだったから、冤罪のデパートとは、どんなところだろうか、と興味が湧いたのだ。 その希望が通り、無事、静岡支局に配属となった。
女性記者が喜んだ理由は
研修を終えて5月から静岡支局に配属され、その後、1カ月にも及ぶ連続の宿直勤務という「修行」が明け、ようやく静岡中央署、南署という市内の警察署を任されることになった。 記者クラブに行って、朝日、毎日、読売……と各新聞社のボックスを回って名刺を配る。1社あたり3畳ほどのボックスに仕切られていて、そこに産経、朝日、NHK、毎日、静岡朝日テレビ、静岡第一テレビ、テレビ静岡、中日新聞、読売新聞、静岡新聞と静岡放送の順に分けられていた。 朝日にも僕と同期の記者が二人いた。Nくんと、もう一人は、今は名前も覚えていない寡黙な青年だった。Nくんは快活で、口を開けば警察の悪口を言っているような感じだった。どこかで会ったことがあるような気がするが思い出せない。 僕よりも遅れて、ある日、毎日新聞に新人記者が配属された。女性だった。 その人があいさつ回りに来た。僕とは全く話が弾まず、ものの数秒で産経のボックスを出て行ったが、隣から「あっ、Nさんじゃないですか。私、X女子大の学生委員会にいたときから尊敬しておりました」とまるでアイドルに出会ったかのような嬌声が聞こえた。