孤独が磨く最高の「切れ味」83歳いまなお進化──山奥の町、最後の鍛冶職人
83歳の職人がコークスの炎をじっとにらみつける。次の瞬間、赤い鉄を炎の中から取り出したかと思うと、ものすごい勢いで叩き始めた。カンカンカッッ。丸太のように太い腕がさらに盛り上がる。片桐保雄さんはこの道70年の鍛冶屋さん。「ますます腕が冴えるような気がする。今が最高くらいじゃないかな」と衰えを知らない。
林業が盛んな静岡県浜松市天竜区佐久間町に残る鍛冶屋は1軒だけ。片桐さんはこの地方伝統の造林鎌「金原鎌」を作る唯一の職人だ。妻に先立たれ、子供は独立し、山奥の地で一人暮らし。跡取りはなく、弟子もいない。鍛冶の文化がこの地から消えようとしている。でも片桐さんは「今が充実している」と言い切る。それは一体なぜなのか。なぜ70年も現役を貫くのか。なぜ「最高」の腕を引き継ぐ者はいないのか。
「迷うもくそもない」14歳で職人に
急峻な山と天竜川に囲まれた佐久間の町。江戸時代から林業が盛んで、その文化は「佐久間の林業と山村生活の用具」として静岡県の指定有形文化財・有形民族文化財にもなっている。「金原鎌」は機械化する以前の林業に欠かせない道具の1つ。浜松市博物館には子供たちが当時を知るための教材として、片桐さんが作った金原鎌が保管されている。
片桐さんの店「片桐鍛冶店」は先代である父が1930年に創業した。渓谷にせり出すように建つ作業場は当時のまま。店先には父が作ったナタや鎌のカタログが今も飾られ、窓から青緑にきらめく天竜川が見える。トイレは最近では珍しいくみ取り式だ。前の通りは昼間でもほとんど人影なし。鉄を打つ音は川の向こう側まで届くという。
片桐さんは終戦の年に14歳で職人になった。学校での成績は優秀で師範学校への進学を勧められたが、7人兄弟の長男である片桐さんは「迷うもくそもない」ときっぱり鍛治の道へ。長男は家を継ぐのが当然と考えられた時代だった上、家計は苦しく進学する余裕はなかったからだ。「私は生まれたときから鍛冶屋になることが決まってた。職業の選択ってやつは全然(ない)」。一方、弟妹らは片桐さんの援助もあって進学・就職していった。それゆえ「私は兄弟のなかじゃ絶対的権力がある」とニカッと笑う。ざっくばらんな片桐さんだが、弟妹について語るときはさらに饒舌だ。 戦後すぐの食糧難の時代は農具の需要が急激に高まり、鍛冶屋は大忙しだったが、片桐さんの結婚、弟妹らの進学と出費は重なり「金には追われたねえ」としみじみ振り返る。外へ遊びに出かけるなど、自分の楽しみのために金を使うことはほとんどなかった。「金がもったいなすぎてね。体を張って稼いだ金だもんで」