孤独が磨く最高の「切れ味」83歳いまなお進化──山奥の町、最後の鍛冶職人
火と刃物を扱う鍛冶屋にけがはつきものだ。高温の鉄材を目の周辺にぶつけてしまい「失明寸前」の傷を負ったこともある。「ぶつけた直後は目が擦りガラスみたいに見えなくなっちゃって。新婚だったし女房には傷を見せられなかったよ。生きた気がしなかったなあ」。眉間にしわを寄せたり、頭を抱えたりと身振り手振りで当時の痛みを再現する片桐さん。この時ばかりは職人を辞めることも頭をかすめた。文字通り「体を張って」稼ぐ日々だった。
最初は見よう見まね、息子は父を追い越した
鍛冶の腕は父の仕事を見て盗むようにして磨いた。まずは見よう見まねでやってみる。さらに焼き入れで鉄材の向きを変えてみる、新しい道具を使ってみるなど自分流に工夫を重ねる。そうして技を完成させていった。熱がこもる仕事場に風を送るため、当時は扇風機すら自作した。「親父は教えるところがなかったんじゃない?」と得意顔の片桐さん。「時計なんていらん」と語る父と朝5時から働いた。 片桐さんが叩き、父がその後に焼き入れするという風に仕事は分業制。「私がどんどこやるから、それに合わせる親父は大変だったかも」と自分が高齢になった今は思う。父の作るものに注文をつけたこともあった。「親父は自分の方が下手だと認めてた。親子だもんでね。これが師匠と弟子だったら、師匠はメンツにかけてもゆずらんわね」。そんな父は片桐さんと仕事をしている最中に倒れて引退し、1972年に亡くなった。 農家の次男だった父。家を継ぐ立場にはなく裸一貫で始めた鍛冶屋にかけていた。仕事ぶりは真剣そのもので一言も文句は言わなかったという。体調を崩した後も「仕事をやらせてくれ」と片桐さんに頼み込むほど。「親父は休んでたら辛いみたいでよ。でも(腕に)安定性がないもの。下手にやられると使い物にならんでよ。『まあいいで! 休め!』って言ってよ」。職人として完璧でないなら、師匠ですら仕事場には立たせなかった。
跡を継いだ片桐さんは鎌の改良を重ねていく。刃物は一般的に硬いほうが切れやすいが、製造中に欠けやすく不良品となるリスクを伴うため、父は鎌を柔らかく仕上げており、その分摩耗しやすかった。「知り合いがプロ(の山林労務者)向けに硬くやってみろと言ってくれてね」。片桐さんはアドバイスを参考に硬くて長く使える鎌を目指したのだ。 すると客がぐんと増え評判が上がったという。営林署からは1度に150丁という規模で注文が舞い込む。さらにその営林署の担当者は別の地域に移った後もわざわざ片桐さんに注文をくれた。それがうれしかったと振り返る。父親の跡を継いだばかりで不安もあったが、自信を深めるきっかけとなった。 戦後、日本の木材需要は復興と高度経済成長の下で拡大するが、1964年の輸入全面自由化以降は需要が外材によって賄われるようになり、山村の過疎化や高齢化も相まって国内の林業は低迷するようになる(※1)。それは片桐さんのように山林刃物をメインで扱う鍛冶屋にも影響を与えた。昭和20年代佐久間に数軒あった鍛冶屋(※2)は徐々に姿を消していく。 片桐さんは主力商品を包丁に変え、都市部の物産展に活路を見出した。きっかけは、佐久間の町おこしのために物産展へ参加していた近所の女性たちに出展を誘われたこと。試しに出てみると2日間で60万円ほどの売り上げになった。「職人だもんで商人みたいに店を出すのは照れくさかったけど、お客さんがついてくれてやる気になったんだ」と語る片桐さんは、今も自ら車を運転し、商品を売りに出かけている。