中国・習近平体制、いよいよ「終わりの始まり」か…軍の「個人独裁」連続批判に追い詰められた習主席が孤独な恫喝
鄧小平を持ち出して習近平批判の意味
12月9日、「解放軍報」は「集団的指導体制を堅持せよ」と題する論評を掲載した。「集団的指導体制」というのは、鄧小平時代の共産党指導部が、文革などの災難をもたらした毛沢東の個人独裁体制に対する反省から提唱したものであって、江沢民・胡錦濤政権時代も共産党指導体制の「基本原則」として貫徹されていた。 しかし習近平政権時代になると、習主席はそれを徐々に破壊して、一昨年の党大会では毛沢東以上の個人独裁体制を確立した。したがって今回の解放軍報論評は、タイトル一つにしても、まさに「鄧小平回帰、習近平批判」の色彩の強いものである。 そして内容を見てみると、冒頭から「我が党においては、重大な意思決定は個人によってではなく集団によって行われるのは伝統である」と鄧小平の発言を引用。 さらに「党の指導というのは党委員会による集団的指導であって、一人、二人の指導者の指導ではない。つまり、各級党組織の指導体制の中では、何人といえども、集団的指導体制を堅持なければならないし、重大問題の意思決定は集団の討議によって行うべきである。個人は組織に従い、少数は多数に従う。個人が上から指導集団を凌駕するようなことは絶対あってはならない」。 「一部の党委員会では、重要な決定は党委員会会議によってではなく、個人が決めることとなっている。党委員会は飾り物となっている。個別の主要指導者が集中を口実にして家父長的な“鶴の一声”で物事を決め、集団的指導体制を無きもの同然にしている」と続く。 ここでは名指しはされていないものの、ほぼ完全に習主席その人に矛先を向けたものであることは現在の中国政治の現状を多少とも知っている人であれば直ぐに分かる。中でも「個別の主要指導者」という表現は相当露骨なものである。要するに、読む人がすぐに分かってくれるように、批判の対象が習主席であることを強く示唆しているのである。
「個人独裁批判」
そして12月11日、「解放軍報」はまたもや、「個人独裁批判」の論評を掲載した。「先頭に立って党内民主を発揚させよう」をタイトルとするこの論評は、「民主集中制」という言葉を持ち出して次のように論じている。 「民主集中制というのは、先に民主があって後に集中がある。党の組織の中では、書記・副書記は平の委員とは平等の関係であり、問題を討議し決定するときには平等の発言権と表決権を有する。……書記は“班長”」ではあるが、“一家の主人”ではない。書記と委員との関係は上下関係ではない」と。 9日掲載の解放軍報論評は「党の指導というのは党委員会による集団的指導であって、一人、二人の指導者の指導ではない」と述べてかなり露骨な「習近平批判」を行ったが、ここで、「書記」という言葉を使ってより一層明確に、その矛先はまさに「習近平総書記」に向けていることを示唆している。そして「書記は一家の主人ではない」という言葉はまた、習近平のワンマン独裁体制に対する真正面からの否定と批判であるに他なない。 論評がここで持ち出した「民主集中制」というのは一応、中国共産党(そして、日本共産党も)の政治伝統の一つであるが、それはかなり玉虫色のものであって、同じ「民主集中制」と言っても「民主」を強調する場合と「集中」を強調するのと全然違う。しかし上述の解放軍報は明らかに「民主」の方を強調するものであって、要するに共産党の政治伝統を持ち出して今の習近平独裁政治を批判しているのである。 12月18日、「解放軍報」はさらに論評を掲載した。今回のタイトルは「先頭に立って実のあることを確実にやろう」というようなものであって一見、今までの論評とは無関係であるが、実はそうではない。中国国内では、「大言壮語ばかり吐いて実際のことは何できない」という「習近平像」が定着している中で、そのタイトル自体は習近平風刺だと理解できるし、さらにその内容はやはり、上述の「民主集中制」を持ち出してその重要性を強調しているのである。 このようにして、軍の「習近平独裁体制批判」は収束することなく、むしろバージョンを変えてエスカレートしてきている観であるが、それは、1)解放軍の「習近平批判」は発作的・偶発的なものではなく、計画的・確信犯的なものであることを示している。2)さらに、軍は全く習近平を恐れていないこと、自分たちが習近平によって何かをされるのを心配していないことを意味する。習近平の軍支配が、すでに終わったことはこれでよく分かる。