強打の「やまびこ打線」 蔦文也さん、教え子たちに今も響く名言
「山あいの子どもたちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」。強打の「やまびこ打線」などと称され、昭和40~50年代の甲子園を沸かせた徳島県立池田高校野球部を40年間率いた元監督の蔦文也さん(2001年死去、享年77)が、1971年夏の甲子園に初出場した際の言葉だ。同校玄関前の碑にも刻まれている。春夏の甲子園で3度の優勝、2度の準優勝に導いた名将が残した数々の名言は、今も教え子たちの心に響いている。 【写真】「攻めダルマ」の異名を持つ蔦文也さん 主将として79年春夏の甲子園に連続出場した岡田康志さん(63)によると、蔦さんは普段、選手の練習に向かう気持ちや姿勢を見ていたという。守備でエラーをしたり打撃でミスをしたりしても何も言わないが、気が抜けたプレーをすると怒られた。練習は常にピリピリした雰囲気の中で行われていたという。 しかし、甲子園では違った。必要最低限の声かけだけで、選手たちに伸び伸びプレーさせることに徹していた。チームは県大会や四国大会で苦戦したが、甲子園では全員が実力以上の力を発揮して勝ち上がった。岡田さんは「不思議な力を感じた」と当時を振り返る。蔦さんは「厳しい練習を耐え抜いてきたから勝てるんだ」という自信を持たせ、選手たちを乗せるのがうまかったと評する。 79年夏の甲子園決勝で箕島(和歌山)に敗れた日、宿舎で蔦さんからこんな言葉をかけられた。「今日で高校野球は終わりだが、気持ちを切り替えて、今後の人生でもしっかりとした生活を送っていくように」。蔦さんの名言の一つ「不名誉は負けることではなく、負けて人間が駄目になること」につながる言葉で、最も印象に残っているという。 戦前生まれの蔦さんは、選手として甲子園に3度出場し、大学生で学徒出陣した。終戦後、社会人野球とプロ野球を経て52年に池田高校野球部監督に就任。甲子園に初出場したのは、就任から20年目のことだった。岡田さんは「普通の人ならここで燃え尽きるはず」と話す。その3年後の74年春には部員11人で準優勝し、「さわやかイレブン」と話題になった。 さらに82年夏、83年春に連覇を成し遂げる。しかし、3連覇がかかった同年夏の準決勝では完封負けを喫した。その際、蔦さんは選手たちに「これで良かったんじゃ」と声をかけたことを、当時大学生だった岡田さんは報道で知った。これからの長い人生、負けて学び、そこから立ち上がってほしい。「人生は敗者復活戦」と語っていた蔦さんの、選手たちへの期待の言葉だと捉えた。 蔦さんは人間味あふれる人柄も魅力だ。2016年に劇場公開されたドキュメンタリー映画「蔦監督―高校野球を変えた男の真実―」を製作した孫の映画監督、哲一朗さん(40)は、知人や教え子ら約40人に取材した。「みんなじいちゃんのことが好きで、いろんな人に支えられながらつかんだ栄光だったんだなと思った」と語る。若い頃は一晩にビールなどを計50本も飲み干したという逸話や、練習で酒の臭いをプンプンさせながらノックをしたという伝説があるほど酒豪だった。 大学卒業後に教員として池田高校に戻った岡田さんは、コーチ、監督代理を経て92年4月、68歳だった蔦さんからチームを引き継いだ。「練習では選手よりも早くグラウンドに出て、最後まで選手と一緒にいるように」と教えられた。蔦さん自身、そんな「姿勢」を見せて選手たちを引っ張っていた。 甲子園での通算成績37勝11敗、勝率7割超を誇る蔦さんは、定年後も非常勤で社会科教諭として教壇に立った。野球だけでなく、選手の普段の姿も把握したかったのだろうと岡田さんは言う。「どうすれば勝てるのか、四六時中野球のことばかり考えていて、とにかく情熱がすごかった。選手たちへの思いも強かった」。だからこそ、蔦さんの言葉は多くの人の心を打つのだろう。【山本芳博】