磯崎新の名言「東京は、あらゆる計画をいつも裏切ったまちだ。」【本と名言365】
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。2022年に逝去した磯崎新は多くの論考を残した建築家だが、若き日ははたしてなにを考えていたのか。それを鮮やかに伝える最初の著作『空間へ』から、都市への視点を読み解きます。 【フォトギャラリーを見る】 東京は、あらゆる計画をいつも裏切ったまちだ。 理論と実作の両面から建築を牽引した磯崎新はまさに「知の巨人」であった。共著を含めて多くの著作を残した磯崎初の著作が『空間へ』だ。これは磯崎が20代の終わりに差し掛かる1960年から独立後に実作を発表していく1968年までに記した、建築と都市にまつわる評論集である。恐れずに言えば磯崎はもちろん、戦後日本の建築におけるある種の青春記ともいえる。 冒頭から磯崎は暴れる。他は年代順だが、巻頭には1962年に発表されたエッセー「都市破壊業KK」を置く。友人が殺し屋を廃業して都市破壊業を始め、それを会社化したという物語調の文章から始まる。なぜ友人は殺し屋を廃業せねばならなかったのか。それは現代の都市が簡単に人を殺していくからだといい、ユーモラスな文体のまま現代都市への辛辣な批評を展開する。これは雑誌『新建築』の巻頭論文として書いたものだったが、過激な内容ゆえに広告ページのなかに押し込まれたと磯崎は附記を加える。 磯崎は建築に限らず、美術、文学、社会政治など、さまざまな分野に目を向け、その分野を新しく切り開かんとする人物と交流を重ねたことが随所に描かれる。1960年、磯崎は日米新安全保障条約をめぐって日本が混迷するなか、デモに参加する日々を過ごした。同時に処女作である〈新宿ホワイトハウス〉から生まれた前衛芸術活動ネオ・ダダのメンバーとも密なる交流を重ねた。政治も芸術も大きく変えようとする渦に身を置いた磯崎は続けて東京オリンピックを経て大阪万博に関わり、1960年安保闘争から1968年の五月革命へと動く時代も見据える。磯崎が生涯を通じて展開した思考の萌芽が本書のあちこちに鏤められている。その磯崎は東京オリンピックが行われた1964年に、「東京は、あらゆる計画をいつも裏切ったまちだ。」と書いた。 「たとえば、渋谷駅をみてもいい。国鉄、地下鉄、二本の私鉄、無数のバス路線、放射、環状の各道路がこの凹地めがけてやたらと突っ込み、各種のレベルで重なりあい、そのすき間にショッピング・センター、デパート、バスターミナル、劇場、映画館などがはさみこまれている。この相互が微妙で複雑な経路で連絡されているのだ。この関係を一目で図示するなど不可能にちかい。それだけでなく、建物や諸施設は長い間まちまち建設され異なったファサードをもち、しかも、その表面や屋上には無数の広告塔が乱立している。」 しかしそれを磯崎は否定しない。この空間は世界にも類がないものとし、「機能的な不便さはあるけれど、ぼくらはここに偶発的な関係のうむ奇妙な美があることも認めるべきだ。」と続ける。一方で、「未来の東京の計画には、それを一挙に転換するような強い構想力が必要になろう。そんな未来に耐える都市のイメージが数多く開発されることが、たった今から必要になってきているのだ。」と文書を結ぶ。はたして磯崎が求めた都市像を東京が描けているのか。時代背景などはあれど、磯崎の文章は随所で予言的だ。いまあらためて若き日の磯崎が重ねた思考を読み解くのもいい。
いそざき・あらた
1931年大分市生まれ。1961年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。丹下健三+都市・建築設計研究所を経て、1963年磯崎新アトリエ設立。代表作に〈大分県立中央図書館〉〈ロサンゼルス現代美術館〉〈なら100年会館〉〈カタール国立コンベンションセンター〉など。国内外で客員教授、多くの国際コンペの審査員を務めた。2022年没。
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