中尊寺建立900年で脚光を浴びる「奥州藤原氏」: 100年の栄華と滅亡
小林 明
東京国立博物館で、岩手県・平泉の中尊寺金色堂建立900年を記念した特別展が開催中だ。金色堂は1124(天治元)年、奥州藤原氏初代・清衡(きよひら)上棟した純金箔貼りの仏堂で、3つの須弥壇にはそれぞれ清衡・2代基衡(もとひら)・3代秀衡(ひでひら)のミイラ化した遺骸が、また秀衡の須弥壇には4代泰衡(やすひら)の首が納められている。奥州藤原氏4代がいかにして東北の地に君臨したかを解説する。
俘囚を管理して朝廷に特産品を貢納
国史・国学の叢書『続群書類従』(ぞくぐんしょるいじゅう)によると、奥州藤原氏の祖先は藤原北家魚流(うおなりゅう)の藤原秀郷(ひでさと)である。NHK大河ドラマ『光る君へ』にも登場する藤原摂関家の道長の傍流にあたる。 奥州に移り住んだのは、秀郷の子孫の頼遠(よりとお)、または、頼遠の子・経清(つねきよ)の時代。経清の子・清衡が奥州藤原氏の初代であり、中尊寺を築いた人物である。もっとも、奥州藤原氏が秀郷子孫というのは系図上であり、確証があるわけではないが、少なくとも藤原摂関家は一族に連なる血筋と認めていたというのが定説だ。 経清が下向した時代の奥州は、たびかさなるヤマト王権による侵攻の結果、朝廷に服属した俘囚(ふしょう)と呼ばれる人々が住む地だった。現地の豪族から俘囚長(ふしゅうのちょう)が任命されて俘囚を管理し、奥州の特産品である金や、鷹の羽根・水豹(すいひょう / アザラシ)の皮・馬などを、貢物として京都に献上していた。 奥州の東側「陸奥」は、俘囚長の安倍氏が統治。安倍氏は、京都から下った貴族の末裔だったとの説が有力だ。一方、西側の「出羽」では、清原氏が実権を握っていた。清原氏は俘囚を祖とする、または京都の貴族の末裔など出自がはっきりしない。いずれにせよ、奥州藤原氏は婚姻を通じて安倍氏、清原氏と結びつきを強めていった。
奥州藤原氏と源氏の長い因縁が始まる
1051(永承6年)年、京都への朝貢を怠った安倍氏に懲罰を与えるため、源頼義が派遣され戦となった。1062(康平5)年まで続く前九年の役の始まりだった。 経清は安倍氏につき、一方の清原氏は源氏と連合。結果は源氏・清原方の勝利で終わり、経清は処刑される。その後、安倍氏の領地は清原氏のものとなった。この戦いの最中の1056(天喜4)年に生まれた清衡は清原氏の子として育てられた。 ところが今度は清原氏の内紛が始まり、清衡は義理の兄弟たちと戦うことになった。1083(永保3)年~1087(寛治元)年の後三年の役である。これを機に、清衡は清原氏からの独立を目指していく。 ここに、またもや源氏が介入してきた。源頼義の子・義家だ。義家は、のちに奥州藤原氏の前に立ちはだかる源頼朝の高祖父である。奥州藤原氏と源氏との長きにわたる因縁が、ここから本格的に始まった。 清衡は義家と組んで清原氏一族と戦い、勝利した。これによって、義家は奥州の覇権と権益を握ったはずだった。だが、京都の朝廷はこの戦いを、清原氏の内政に介入した義家の「私戦」と捉え、恩賞を与えなかった。義家は落胆したのか東北から手を引き、その結果、清衡が清原氏の領地を手に入れるのである。