主家再興に尽くし続け「七難八苦」した戦国一の忠臣【山中鹿介】
恐らく戦国時代1の忠臣といえば、山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)が筆頭に挙げられよう。鹿介が仕えた尼子氏は、出雲を拠点に山陰・山陽で11州もの領土を持つ太守であった。尼子経久(あまごつねひさ)が築いた太守の国は、その曾孫に当たる義久(よしひさ)の時代に、のし上がってきた隣国の毛利元就(もうりもとなり)の勢力による侵攻に脅かされるようになった。日毎に劣勢となる主家・尼子家で、武勇を馳せて主家の勢力挽回を謀ろうとしたのが、まだ10代のの若武者・山中鹿介である。 鹿介は、尼子家の一族・山中家の次男として天文14年(1545)8月に生まれたが、2歳の頃に父が死去したために、母親の手で育てられた。兄は生来病弱であり、家督は鹿介が継いだ。その際に兄から「先祖重代の兜」とされる「鹿の角と三日月の前立」の付いた兜を譲り受けた。そして12歳で、月山富田城主・尼子晴久(はるひさ)の世嗣・義久の近習となった。 有名な「我に七難八苦(多くの災難と苦労)を与えたまえ」と鹿介が山の端に掛かる三日月に祈ったエピソードは、この頃に鹿介が傾き掛かった主家の立て直しのために自己研鑽と鍛錬をして頑張りたいという、心映えを示したこのである。 こうした甲斐あってか、16歳の鹿介は、主君・義久に従って伯耆(鳥取県・島根県の一部)・尾高城を攻めた際に敵軍の猛将・菊池音八を討ち取っている。だが、安芸(広島)・毛利元就が出雲遠征に乗り出してきた。永禄5年(1562)7月から3年近く、この戦いは続く。遂に永禄8年、尼子氏の月山・富田城は十重二十重に包囲されてしまった。その9月20日、孤立無援の中で鹿介は城下を流れる飯梨側の中洲で、毛利軍の剛将といわれた品川大膳と一騎打ちを行った。大膳は、史家の前立をつけた兜を被る鹿介を討ち取ろうと、名前を「狼介勝盛」と名乗って臨んだ。というのも「狼は鹿を捕って食らう」という縁起をかついだからであった。しかし、死闘は、鹿介の勝利に終わり、山中鹿介の武名は中国地方一帯に広まった。この時、鹿介は20歳であった。 だが、こうした鹿介や「尼子10勇士」などと呼ばれる華々しい活躍にもかかわらず、尼子氏は永禄9年(1566)には毛利氏に降伏して、主家一族は捕虜とされてしまった。鹿介は、京都に出て東福寺の僧になっていた尼子家の遺児・勝久を担ぎ出して主家の再興を図った。鹿介の行動に賛同した尼子家の遺臣たちは3千人に膨れ上がり、今は毛利氏のものになっていた月山富田城に迫った。しかし、結局この攻撃に失敗した鹿介は、いくつかの城に拠って抵抗を続けたが、1度は降伏することになった。だが、脱走した鹿介は「寄らば大樹の陰」とばかり、毛利氏と対立する織田信長、さらには羽柴秀吉の麾下に入って主家再興の行動を続けた。 自らが担ぎ出した主君・勝久とともに播磨(兵庫県西南部)・上月城の守備に入った鹿介は、天正6年(1578)5月、毛利軍6万に攻められて降伏。遂に斬首となった。鹿介は34歳。志半ばの死であった。なお、鹿介の遺児(長男・幸元)生き延びて、後に商人となって鴻池新右衛門と名前も改めた。これが両替商で大富豪「鴻池家」になる。
江宮 隆之