まさに芸術品!映画『フェラーリ』にも登場した、ザガートボディのフェラーリ250GT
フェラーリの中でも屈指の希少性と美しさを誇るこのザガートボディの250GTは、出品されたコンクールで数々の栄誉に輝いてきた。だが、オーナーはこの車を使うこともやぶさかではない。マーク・ディクソンが試乗した。 【画像】人を惹きつけてやまない独特の魅力をもつ、“通”の車。フェラーリ250GTザガート(写真11点) ーーーーー 「これほど芸術品に近いものは想像できない。“通”の車だよ」 オーナーのデイヴィッド・シドリックはそう豪語する。何とも大胆な主張だ。しかし、反論できる者がいるだろうか。このザガートボディのフェラーリは、1950年代に誕生したクーペの中でも一、二を争う美しさだ。その証拠に、この30年というもの、コンクールに出品されるたびに次々と賞を獲得してきた。幸いにも、だからといって完全に仕舞い込まれているわけではない。むしろその逆だ。定期的に使うことで、文字どおり新品同様のコンディションといえるまでに進化させ、改良できたのだとシドリックは考えている。 「整備を任せている男にいわせれば、ワークショップに来る車の中で、オイルも水も漏れていないのはこれ1台きりだそうだ!」とシドリックは笑う。「私はこれでミッレミリアに出たし、コロラド・グランデやコッパステートにも参加した。著名コレクターのブランドン・ワンが主催した"250ツアー"では、ル・マンをスタートしてマラネロまで、大雨の中を何日も走り続けた。ほかにもたくさんある。ベニスの大運河では平船にも乗せた。ゴンドラの船頭たちがハラハラしていたよ!」 ●0515GT この250GT、シャシーナンバー0515GTは、最初から活動的な日々をすごしてきた。1956年初頭に新車で購入したのは、イタリアのジェントルマンドライバー、ヴラディミロ・ガルッツィだった。ガルッツィはミラノを拠点とするレースチーム、スクーデリア・サンタンブロウズの会長で、フェラーリの上得意だった。 ガルッツィやそれに続くイタリア人オーナーの手で、0515GTは1950年代末まで競技で使われ、1960年代にアメリカに渡った。そして、「長年、カリフォルニアで様々なコレクターの元を転々とした」あと、1990年代末に自分が手に入れたのだとシドリックは簡潔にまとめる。以来、ずっと手元に置いてきた。 ジョージ・オーウェルの小説の一節をもじれば、「すべてのフェラーリ250は特別である。しかし、一部の250はほかの250よりもっと特別である」といえるだろう。これに最もよく当てはまるのがザガートボディの250GTだ。あまりにも希少種なので、ハンス・タナーの名著『Ferrari』にさえ出てこない。250GTのボディは、ピニン・ファリーナに代わってほぼすべてをスカリエッティが製造し、一部はボアノとエレナも手がけたが、ザガート製は5台のみである。シドリックが所有するシャシーナンバー0515GTは、その製造1台目だ。最初の購入者であるガルッツィは、競技で使用したいと考えていたから、ザガートの超軽量ボディ構造はうってつけだった。 ●250GT どのカロッツェリア製ボディでも、250GTは競技車両としてたちまち成功を収めた。フェラーリがヨーロッパ市場に最初に投入した連続生産モデルが250エウロパで、250GTはその進化版である。2台にはひとつ決定的な違いがあった。エウロパもGTも3リッターのV12エンジンを搭載するが、エウロパのV12はランプレディ設計の4101ccエンジン(70×68mm)の派生型で、スリーブを交換して2963cc(68×68mm)に縮小していたのに対し、GTはジョアッキーノ・コロンボ設計の2953cc(73×58.8mm)エンジンを搭載していたのである。結果的にコロンボV12のほうが桁違いに長命となった。1946年に1496cc(55×52.5cc)で125Sに搭載されたこのエンジンは、その後も絶え間ない進化を続け、最終的には1989年に直線的デザインのフェラーリ412クーペの生産が終了するまで生き続けたのである。 よく知られているように、3リッターの車でありながら250と呼ばれる理由は、エンツォ・フェラーリがエンジンの排気量ではなく、平方センチメートル(cc)で表した1気筒あたりの容量を車名としたからだが、これはなかなかの妙案だった。たとえば4気筒の750モンツァと、12気筒の250GTはエンジンの総排気量がほぼ同じである。 フェラーリが250という車名を使用したのは1952年の、250Sからだった。このワンオフのクーペは、コロンボの新型V12を擁して同年のミッレミリアを制し、同じエンジンを搭載する250GTも、1950年代後半から1960年代初めにかけて、数え切れないほどの勝利をもたらす。その中で最も有名だったのが、1956年のポルターゴ/ネルソン組によるツール・ド・フランス優勝で、ここから250GTは「ツール・ド・フランス」の愛称を得た。さらにオリヴィエ・ジャンドビアンが1957、58、59年に3連覇を果たし、名声を不動のものとした。