下世話な商売人をジャーナリストに変貌させた 安政大地震を伝えたかわら版
報道機関は迅速かつ正確なニュースを人々に届けることが責務です。とくに地震など天災発生時は、ジャーナリストたちもより一層襟を正し「人々のための報道」を心がけます。江戸時代の庶民の娯楽だった「かわら版」もその例外ではありませんでした。 ペリー来航の翌年から3回発生した「安政大地震」は江戸庶民に未曾有の被害と恐怖をもたらしました。江戸の一大事を目前に、かわら版屋は「江戸の庶民のために正しい情報を伝えたい」と立ち上がります。 遠く離れた国元の家族に「無事」だと伝えたい人たちのために、家や財産、食べ物を失い路頭に迷う人たちのために、かわら版屋はひた走り取材し、筆を走らせました。当時の地震被害と江戸の様子、そしてジャーナリズムの萌芽を感じさせるかわら版について、大阪学院大学、准教授の森田健司さんが解説します。
幕府を弱体化させた大地震
幕末の日本を騒がせたのは、欧米列強による強引な開国要求だけではない。それと同等、いやむしろもっと幕府を悩ませたのは、頻発した大地震だった。特に、ペリー来航以降の数年間に起きた大地震は、長い日本の歴史の中でも特筆すべきものである。以下、大地震の発生年を列挙してみよう。 1853(嘉永6)年6月3日 ペリー艦隊来航 1854(嘉永7)年11月4日 安政東海地震(マグニチュード8.4) 1854(嘉永7)年11月5日 安政南海地震(マグニチュード8.4) 1855(安政2)年10月2日 安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.1) 欧米列強の開国要求と安政東南海地震をはじめとする「凶事」を断ち切るため、1854(嘉永7)年11月27日、元号は安政に改められた。いわゆる「災異改元」である。しかし皮肉にも、安政年間(1854~1860年)の日本列島は、これまで以上に、地震に襲われることとなった。大きな被害をもたらした地震だけでも、20回ほど発生したことが記録されている。 安政年間における地震の中で最も被害の大きかったのが、1855(安政2)年10月2日の午後10時頃に発生した、安政江戸地震である。直下型であったこの地震は、最大震度が6以上だったと伝えられ、江戸のほとんどの建築物が深刻な被害を受けた。死者は、府内に限っても1万人前後と推察されている。まさしく、未曾有の大災害である。 一体、どこにどのような被害があったのか。自分の家族は、友人は、知人は無事なのか。庶民が、喉から手が出るほど欲している情報、それを提供できるのは自分たちだけだろう。地震発生からしばらく経ったとき、かわら版屋たちはそう思ったに違いない。安政江戸地震が起きた後、被害状況を伝えるかわら版は、なんと600種以上も出されたのである。 例えば、敵討を扱ったかわら版などには、彼らは相当に信憑性の低い情報を掲載していた。ところが、安政江戸地震に関する報道では、その多くが極めて正確で、しかも詳細であると評価されている。冒頭に掲げた「ゆるがぬ御代要之石寿栄(みよかなめのいしずえ)」も、丁寧に各地の被害状況を記し、そこに被災者やその関係者への心遣いが感じられる文章を添えたものである。 この事実は、大地震の報道をする中で「ジャーナリスト型のかわら版屋」が生まれ始めたことの、一つの証と言えるかも知れない。