下世話な商売人をジャーナリストに変貌させた 安政大地震を伝えたかわら版
お救い小屋と互助の精神
現代に生きる我々は、「社会の制度が今よりずっと未熟だった江戸時代に、地震などが起きたら大変だっただろう」と思うはずである。木造住宅は壊れやすい上、火に弱く、瓦礫に埋まった人々を助け出す重機も存在しない。「命だけ助かっても、その後の生活はどうなったのか」と不安に思う向きも、おそらくあるだろう。 しかし、江戸時代の社会も、決して捨てたものではない。その一つが、先のお救い小屋である。当時、大きな災害があると、お救い小屋と呼ばれる即席の避難所が、各地に作られた。先ほどのかわら版には、そのお救い小屋の建てられた「場所」が書かれていたのである。 お救い小屋では、被災者に食事や衣服が提供され、また一定期間の避難生活を送ることができた。これは、今の避難所とそれほど変わらない。幕府はこのような災害対策については、日頃から周到に準備していたのである。 当然ながら、お救い小屋を作ることや、それを運営することには、多大な費用がかかる。常にギリギリな懐具合だった幕府に、その財源の全てを求めるのは酷である。では、どこからお金が出ていたのだろうか。 その答えの一端が、次に掲載したかわら版「施し名前附(なまえづけ)」で明かされている。
儒教を元にした道徳教育が徹底していた当時、いわゆる「互助の精神」は、今よりもずっと強いものだった。経済的に余裕のある人々は、災害が起これば、惜しげなく私財を提供した。特に、豪商においては、この傾向が顕著だった。社会が安定していなければ、商売というもの自体が成立しないことを、彼らは骨の髄まで知っていたからである。 そして、支援金を供出した人々は、世間で高く評価された。「施し名前附」は、安政江戸地震の後に、寄付を行った人々の名前をまとめた一枚刷りである。寄付金の額や、それによって建てられたであろうお救い小屋の場所なども、しっかり記されている。 これが、かわら版という商品として流通したという事実からは、当時の庶民の中に「寄付を行った人々の名前を知りたい」という強い欲求があったことがわかる。尊敬すべき慈愛の精神の持ち主が誰か、お金を出してまで知ろうとしたのである。これは、江戸時代の庶民の実像を知る上で、極めて重要な事実だと思われる。 江戸府内だけで1万人以上の命を奪い、住宅をはじめとした多くの建造物を火災で焼失させた安政江戸地震。多くの庶民は、深く嘆き悲しんだことだろう。しかし、しばらくすると、江戸では不思議な刷り物が流行し始める。かわら版の一種、鯰絵(なまずえ)である。 次回は、「世にも奇妙な」この鯰絵に、話を進めたい。 (大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)