家族が亡くなり、母親だけになった実家に残されていたもの…母親の孤独に気がつけない「恐ろしさ」
母親が抱える孤独の正体に迫る
たとえば冒頭の「セメタリー」は国民的アニメで見るような三世代が集う〈明るい仲良し一家〉で育った岬樹が、数年ぶりに帰省する場面からはじまります。祖父母と父が死に、子どもたちが自立して、母親だけが取り残された家には何が残っているのか? ミステリー的な読み味もありつつ「母親の孤独」を最もストレートに描いた、入口となる一編です。 続く「ワンピース」は、母親がすでに亡くなっており登場しません。すでに結婚している冴子が亡くなった母親の遺産相続について兄と相談していたなか、兄から再婚相手ができたと告げられます。うつ病を患って仕事ができなくなった兄と、献身的に支え続けた母親のすがたを間接的に描きつつも、再婚相手の登場によって物語は急転。母親が負わされる役割の数々はほんとうに母親にしか背負えないものなのか、在り方を問いかけてきます。 三編目の「ビースト」になると、語り手は「母親を見守る母親」となります。娘の和美から七年ぶりに連絡を受けた美也子は、シングルマザーになっていた彼女とその息子二人を自宅に住まわせるように。和美に利用されていると感じながらも美也子は強く言い出せず、次第に溝は深まっていきます。自らが母親であったがゆえに和美の境遇に寄り添いきれず「自らの経験を当てはめた母親像」を押し付けてしまう、孤独の連鎖が恐ろしさとともに浮かび上がります。 そして真骨頂となるのが「エスケープ」。胎児のころに母親の心無い言葉を聞いて育ち、「早くこの女から逃げなきゃ」と無意識下で思い続けている小学生の陽希が「トー横」で生活する若者の存在を知っていきます。母親は自分の人生のために娘を産む、愛情のない冷酷な人間として描かれており、陽希が母親から逃げようとするのはもっともだと共感して読めるでしょう。 しかし、共感して読めるエンターテイメント的な読み味がトラップとしても機能しています。なぜなら陽希は母親の辛い過去や現在の境遇を顧みず、母親が抱えていた孤独は家族から常に無視されているから――「母親だから当然」がまかり通る子育ての実情が裏で見え隠れしているのです。親子を断絶することで見えてくるのはむしろ共感の裏側にある、生まれた子どもを無条件に愛さなければいけない母親の重圧でしょう。まっとうなエンターテイメントと見せかけて、当然のようにも思える根本の倫理観をいまいちど揺さぶってきます。