風船爆弾から唯一の空襲まで、実は第2次大戦で米国本土も攻撃を受けていた、犠牲者も
唯一本土への空襲を成功させた日本人
1942年9月9日、大規模な森林火災とパニックを引き起こすため、日本の潜水艦がオレゴン州沿岸で、テルミット焼夷(しょうい)弾2発を搭載した小型水上偵察機を飛ばした。パイロットの藤田信雄は内陸約80キロのエミリー山付近で爆弾を投下し、小規模な森林火災をいくつか発生させた。 一帯の森林は降雨で湿っており、火災が起こりにくい状態だった。日本製の爆弾の破片が回収され、米軍に引き渡された。 大衆のパニックを避けるため、フランクリン・ルーズベルト米大統領は報道規制を要請したが、すでに多くの人がこの攻撃について知っていたため、徒労に終わった。米軍は戦闘機を投入し、西海岸全域で灯火管制が実施された。 9月29日午前0時過ぎ、藤田は再び攻撃を実行し、オレゴン州沿岸に2発の焼夷弾を投下した。藤田自身は炎を見たと報告したが、現地からの報告は皆無だった。藤田は米国本土への空襲を成功させた唯一の人物だ。
付記:不当な抑留について
日系米国人は長い間、偏見に直面してきた。1924年には、日本を含むアジア諸国からの移民が禁止された。 太平洋戦争が勃発すると、米カリフォルニア州司法長官で、後に連邦最高裁判所長官となるアール・ウォーレンは、西海岸に暮らす日系人(その3分の2は米国市民)の強制収容を提案した。この大胆な措置は1942年初頭、ルーズベルト大統領によって承認された。 約12万の日系米国人が4日から2週間のうちに用事を済ませ、荷物をまとめ、内陸部の収容所に移送された。その後3年間にわたり、暑さや寒さをしのぐことができない過酷な環境で、最低限の家具だけで暮らすことになる。戦争が終わると、収容所は閉鎖され、日系米国人たちは少しずつ元の生活を取り戻していった。 ウォーレンは「強制収容を提案し、それを支持する証言をしたことを深く後悔している。なぜなら、私たち米国人が重視する自由と公民権の概念にそぐわないためだ」と述懐している。
文=Neil Kagan and Stephen Hyslop/訳=米井香織