岡田暁生×片山杜秀・対談「ゼロ地点の音楽」
「憧れ」は何も生まない
岡田 伊福部はショートカットでいきなりドイツ(あるいはフランス)の文化を直輸入するというより、ユーラシアの地べたを歩きながらヨーロッパに接近しようとした人ですよね。樺太からシベリア、モンゴル、カザフスタンを横切って……。 片山 シルクロード経由でイスラムを通ってスペインのファリャまで行き、ロシア経由でストラヴィンスキーへ。 岡田 ファリャが好きだった理由がふるっている。ファリャはあれだけフランス音楽が好きだったのに、真似しようとしなかったのが偉大だ、と。 片山 遠いものへの「憧れ」は何も生まない、といつも戒められました。「憧れ」を過剰に意識するのはデラシネの問題があるからです。開拓地の役人の子で高等教育を受けた経歴を持つ伊福部昭ほど故郷に阻害されている荒野の流れ者はいませんから。 岡田 洋楽に憧れる都会のぼんぼんインテリと対極にいた人ですね。彼が森林官をやっていた厚岸って、最近もヒグマが次々牛を襲う事件があったあたりだ(笑)。そんなところで山奥の小屋で寝泊まりする暮らしをしていた人 が作曲家になった……。 片山 実際、厚岸の山小屋で熊に襲われそうになったことがあるそうです。ところで伊福部は北海道帝国大学でも農学部の林学実科の出であって、本科ではない。西田幾多郎が東京帝国大学の文科大学の本科でなく選科であったことを思い出してよいでしょう。当時としては選良に違いないけれど、はみだしている。そこにもうひとつ屈折があり疎外感があって、西田哲学か伊福部音楽か、構造と言うか結構と言うか、フォルムがおかしくなるわけです。きちんとした近代から遠く離れてしまう。 岡田 明治以来の東京的近代に対しても違和感がないはずはないですよね。急ごしらえで薄っぺらな舶来近代への反感。この薄っぺら感は残念ながら百年の間にますます加速され、そして黄昏を迎えているようにも見えますが、どうでしょう、そんな時代の日本にあって伊福部の音楽が何か指針を与えてくれるとすれば何でしょうか? 片山 司馬遷の「大楽必易」。伊福部の好んだ言葉です。本物の音楽はシンプルだということです。それからゲーテの「真の教養とは取り戻された純真さに他ならない」。これが伊福部の殺し文句でして。近代の教養を「真の教養」で撃つ。近代の教養の真打とは西洋近代音楽で言えばやはり対位法と和声学でしょう。それが「真の教養」への回帰を阻害する。 岡田 そういえば確かガルシア・ロルカがロマのことを「血の中に教養をもつ人」といっていた記憶がありますが、その意味での教養ですね。 片山 そして「真の教養」すなわち本当の音楽とは、純真さ、童心、単純さであって、それはたとえば『ゴジラ』のドシラみたいなものだ。展開なき反復だ。西田哲学の純粋経験も童心ではないですか。対位法や和声学をよく勉強して忘れられなくなり、ついにはシェーンベルクのように単純な反復を稚拙で恥ずかしいと感じるようになると、もう童心には帰れない。では誰が帰れるのか。北海道で独学で「近代の教養」をすっ飛ばした伊福部がそこに浮上するわけです。その意味で、もし近代が破綻してゼロ地点に還れば、どうしても伊福部が還ってきてしまう。今がそのとき。そんな気がしてならないのですが。 [文]新潮社 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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