朝ドラ『おむすび』中間総括評論 B'z「イルミネーション」は“平成”をどう照らしたか?
“リアリティのない”平成ノスタルジー
このように、結にとって「ギャルの否定」は「震災の記憶の否定」でもあった。すなわちそれは「平成の否定」でもあるが、平成を題材にしておきながら主人公が頑なに平成を否定し続ける序盤の展開に、停滞感を抱いていた視聴者がいたのは否めない。 しかしその停滞感は単に脚本のテンポが悪いからというだけでなく、「平成」を歴史として受け入れることが(結にとってだけでなく)我々にとっても難しいから生じるものではないだろうか。 第4週において幼い結(幼少期・磯村アメリ)は、震災によって倒壊した自宅の瓦礫を見て「これ、何?」と漏らす。あまりに「現実感を欠いた現実」を受け入れることができなかったのだ。同様に「平成」のことを「失われた30年」としか呼称できていない(平成が歴史として受け入れられていない)現状それ自体を、「ギャルと震災の忘却」を通じて平成を否定していた結が体現していたかのようである。 したがって結が「ギャル」に接近することは、二つの意味(自由意志への目覚め、トラウマの克服)での成熟を意味するとともに、「平成」の歴史認識の可能性をも意味するだろう。 そしてこのように「ギャル」の持つ意味があまりにも多重化している(にもかかわらず主人公がギャルを否定する)ために、特に序盤においての『おむすび』の物語構造は複雑さが極まっていたと言える。
「“ギャル”ゲー」としての朝ドラ
こうした複数ジャンルが乱立していることに加えて、本作には目立たないがもう一つのストーリーが並走していることも見過ごせないだろう。主人公・結による「ハーレムラブコメ」あるいは「“ギャル”ゲー」としてのストーリーである。 本作には結を取り巻く複数の「彼氏候補」がいて、さながらそれは「ハーレムラブコメ」=「ギャルゲー」のようである。書道部のイケメンの先輩・風見亮介(松本怜生)、超高校級の野球部エース・四ツ木翔也(佐野勇斗)、幼なじみ・古賀陽太(菅生新樹)、誰が結とくっつくのかも何気に見どころだ(先輩は事実上脱落したようだが)。 いずれにしてもこのような「複数の恋人候補」との関係が同時進行するさまもまた「平成」的である。ちょうど震災と同じ1995年、Windows 95が発売されてから普及したPCゲームとその影響下において、同様の構造で物語が進行するいわゆる「ギャルゲー」は一ジャンルを築いた。 現代風に言うならば複数の「世界線」を俯瞰視点でながめる主体のありかたが、この時期改めて発見されたのだ。かつて批評家の東浩紀はこれを「ゲーム的リアリズム」と呼び、平成期のカルチャー(ゲームから小説に至るまで)から横断的にこのリアリズムを見出したのだった(『ゲーム的リアリズムの誕生:動物化するポストモダン2』講談社現代新書)。それは情報社会と自由主義経済が進行し、「選択肢」の同時多発的な多様化・他人の「選択肢」の可視化に直面した当時の時代精神の比喩となっただろう。