父よりはるかに長く権力の座についた藤原頼通
■道長没後の弟・教通の台頭と権力闘争 そんな偉大な父も1027(万寿4)年に病没。いよいよ名実ともに権力を継承した頼通は、父と同様に天皇の外戚という地位を確立すべく画策した。ところが、正妻の降姫(たかひめ)女王との間は子宝に恵まれなかった。なお、降姫女王は村上天皇の皇子である具平(ともひら)親王の娘である。 そこで敦康(あつやす)親王の娘・嫄子(げんし)を養女として入内させ、後朱雀(ごすざく)天皇の中宮に立てた。嫄子は女児を生んだものの、皇子を出産することなく死去。そんななか、複数の子のいる弟の教通が台頭。兄弟は泥沼の権力争いに没頭することとなった。頼通はやむなく妾を得て、6男2女をもうけている。 一方、国内の治安は混乱を見せ始めていた。道長存命中の1019(寛仁3)年に、異民族が九州地方を襲撃した「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」と呼ばれる事件が起こったのがきっかけのひとつだ。道長の甥である藤原隆家(たかいえ)が中心となり、かろうじて撃退したものの、貴族社会は騒然となった。 道長の亡くなった翌年に当たる1028(長元元)年には関東の平忠常(たいらのただつね)が朝廷に対して反乱を起こしている。鎮圧の陣頭指揮に立ったのが頼通だったが、派遣した平直方(なおかた)は敗北。3年におよんで忠常の暴れまわった房総半島一帯は荒廃した。 1051(永承6)年には、陸奥で安倍氏が蜂起(前九年の役)。戦乱は1062(康平5)年にまでおよび、朝廷の求心力の低下が深刻なものであることを裏付ける結果となった。 これらを鎮圧したのは源頼信(みなもとのよりのぶ/平忠常の乱)、源頼義(よりよし/前九年の役)らであり、彼らの活躍によって源氏の台頭、さらにいえば武士団が力をつけるきっかけになったといわれている。 頼通は約50年もの間、権勢を振るい続けたが、1068(治暦4)年に弟・教通にその地位を譲った。天皇の外戚という立場を得ることができなかったため、道長を祖とする御堂流にすれば、譲る先が弟しかおらず、苦肉の末の継承だったと考えられる。 晩年は宇治の邸宅で隠棲した。父・道長よりはるかに長い年月を権力者として過ごした一方で、藤原祇子の生んだ六男で、後継者である藤原師実(もろざね)に明確に権力を移譲できないまま引退している。頼通の存在は、藤原氏による摂関政治の衰退と、その後の院政政治の到来を告げる象徴であったと見ることもできる。 1074(承保元)年に死去。享年は83だった。 なお、紫式部は自著『紫式部日記』の中で「物語にほめたる男の心地しはべりしか」(物語で誉めている男君のような気持ちがした)と、頼通の凛々しさを褒め称えている。
小野 雅彦