父よりはるかに長く権力の座についた藤原頼通
11月10日(日)放送の『光る君へ』第43回「輝きののちに」では、三条天皇(木村達成)に譲位を迫る藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)の姿が描かれた。一方、藤式部(とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)の娘・藤原賢子(かたこ/けんし/南沙良)は、初恋の相手から唐突に別れを告げられたのだった。 ■病に苦しむ三条天皇に譲位を迫る 藤原道長の娘で中宮の藤原妍子(きよこ/けんし/倉沢杏菜)と三条天皇との間に禎子(ていし)内親王が生まれた。しかし、道長の望む皇子ではなかった上、内裏は焼亡し、三条天皇は徐々に視力と聴力が蝕まれる病にかかるなど、思いも寄らない混乱が立て続いていた。 症状が重篤化しつつあり、政務に差し障りがあると見た道長は、三条天皇に譲位を進言。しかし、三条天皇は頑なに応じようとしない。 一方、光る君亡き後の『源氏の物語』を書き始めた藤式部のもとに、父である藤原為時(ためとき/岸谷五朗)が任地の越後国から戻ってきた。それと入れ替わるように、式部の娘・藤原賢子が恋心を抱く双寿丸(そうじゅまる/伊藤健太郎)が大宰府に赴くこととなった。 同行を希望する賢子だったが、双寿丸にはっきりと拒まれる。傷心を抱えた賢子は母に胸の内を打ち明けたところ、心が晴れた。気持ちを入れ替えた賢子は、旅立つ双寿丸のために宴を催す。双寿丸の姿を目に焼き付けようと見つめる娘・賢子を、式部は温かく見守るのだった。
■摂関から院政へと変わりゆく時代の狭間に立つ 藤原頼通(よりみち)は992(正暦3)年に、藤原道長の長男として生まれた。母は左大臣を務めた源雅信の長女である源倫子(ともこ/りんし)。同じ母を持つ姉に藤原彰子(あきこ/しょうし)、弟に藤原教通(のりみち)、妹に藤原妍子、藤原威子(たけこ/いし)、藤原嬉子(よしこ/きし)がいる。 元服したのは12歳だった1003(長保5)年だが、この時に正五位下という位階を授かった。通例は従五位上とのことだから、道長の後継者として多大な期待と注目が寄せられていたことがうかがえる。 1009(寛弘6)年に権中納言、1013(長和2)年には権大納言、1015(長和4)年には左大将に就任するなど、破格の出世街道を歩んだ。 1017(寛仁元)年3月に内大臣に就任。当時、頼通は26歳。直後に父・道長より摂政の座を譲られている。当時としては史上最年少となる摂政の誕生だった。 最高権力の座についたとはいえ、父の影響力は依然として大きく、実権は道長に握られたままだった。もっとも、頼通も大臣になりたてで経験が浅く、道長に頼らざるを得ない場面は少なくなかった。事実、除目の最中に使者を派遣して道長の指示を仰いだこともあったらしい。道長は、頼通の不手際を叱責し、勘当を申し渡したこともあったほど、厳しく指導したという。 表向き、宇治で隠居する態度を明らかにしていた道長は「政務には関与せず」と言明していたようだが、周囲がそれを許さなかった。道長による実権の掌握はしばらく続いた。