元自衛官からみたPKO日報問題 すり替わった議論の本質
本質に触れられない防衛省と触れたくないマスコミ
歴代の政権は、派遣が事後に違法状態になることを懸念して、PKO部隊の派遣先を慎重に吟味してきました。しかし2011年、時の民主党野田政権は、この五原則の維持が困難であることが当初から予想された南スーダンに対して、自衛隊の派遣を決めます。 派遣が決まった当時、この五原則に照らした派遣が困難であることを、自民党の佐藤正久議員などが指摘していました。しかしながら、この五原則を変更する、あるいは南スーダン派遣について特別措置法を成立させるといった法的な措置は何も講じられないまま、自衛隊が派遣されます。 「駆けつけ警護」が可能になったのは、派遣から5年も経過した昨年のことです。それでも、この五原則には手が付けられていません。 日報が書かれた昨年2016年7月当時、防衛省・自衛隊は、この日報を見るまでもなく、ジュバにおいて五原則が怪しい状況であったことは認識していたはずです。ジュバでの戦闘は日本でも報じられていました。稲田氏も状況報告を受けるまでもなく、当然ながら知っていたはずです。 7月以降、五原則は既に崩壊しているとする報道や野党の追及が盛んになされました。この時点では、まだ本質に迫る議論がなされ、焦点は派遣の継続が違法であったかどうかだったのです。しかし、現地の情勢が落ち着く一方で、日報を存在しないことにしてしまったため追及が落ち着くことなく、論点が日報の存否に移ってしまったと言えます。 防衛省が、本質である五原則の議論を避けた理由は、この問題が注目されたころ、駆けつけ警護を可能とする新任務の付与が焦点になっていたからだと言われます。しかし、衝突が起きる状況だからこそ、駆けつけ警護の権限が必要だとして、正面から政策論争することも可能でした。 そして五原則に照らし合わせて、派遣は極めて“グレーな状態”なので五原則も見直しましょう、と問題提起することは可能だったはずです。当時は今よりも「安倍一強」状態でしたし、森友学園問題も加計学園問題もまだ顕在化していません。しかし、稲田氏はそれをしませんでした。情勢がさらに緊迫化すれば、五原則の(4)に則り、撤収しなければならない可能性を懸念したのでしょう。 元自衛官目線から見ると、防衛省官僚である内局 (背広組)か、あるいは大臣が、正面から政策論争することを避けたと思わざるを得ません。 その一方で、マスコミも五原則に則り「違法ではないか」というキャンペーンはそれほど強く張りませんでした。PKO法が成立した四半世紀前と比べれば、国民意識は大きく変わりました。今、五原則に則りPKO派遣は違法だから止めるべきだなどと報じれば、逆に法律こそ改正すべきだという論調になることが目に見えていたからでしょう。そのキャンペーンに対して、政府が正面から政策論争を挑んでくれば、世論が政府を支持すると読んだのだと思われます。 防衛省とマスコミの双方が論点のすり替えを望んだ結果、それが日報問題だったと考えます。