本郷和人 武田勝頼の失敗は<信玄超え>した高天神城にこだわりすぎたこと。信長から「救援しても見捨ててもアウト」という<詰んだ状況>に追い込まれ…
◆名将・岡部元信が守るも 「長篠の戦い」で武田は完敗を喫し、それに乗じて徳川が攻勢に出た。高天神城も奪われて当然だったのですが……その城を守っていたのが、岡部元信という大変な名将でした。 彼はもともと今川に仕えていて桶狭間にも出陣し、本陣と離れ、別働隊として戦果を上げていました。そこに"義元戦死"という知らせが入ったのですが、岡部は慌てて逃げ帰るわけではなく、粛々と軍を引く。そして織田方と交渉して、見事に義元の首を取り戻して国へ帰ったという経歴を持つ、沈着冷静な名将です。 その後、今川に見切りをつけ、武田側に転職していたのですが、「新参者は最前線に送られる」という原則どおり、対徳川最前線の高天神城を任されていた。 岡部は一所懸命、城を守り抜きます。一方の徳川軍は、しぶとい高天神城を置き捨てて、周辺の城を落としていく。気がつけば、徳川勢の真ん中に高天神城が孤立し、ぽつんと取り残されてしまうことに。 太平洋戦争史に詳しい人に聞くと、この状況はガダルカナル島と同じと言います。 何度もいいますが、城を確保すること自体に意味はありません。"境目の城"という意義を失った以上、勝頼も「早々に城を放棄して戻ってこい」と言うべきでした。それなのに、ぐずぐずしてしまったのはなぜか。 結局、高天神城は、勝頼を伝説化するための城なのですね。彼が攻略し、戦争の天才である父越えを果たしたという城。その名誉を忘れることができず、放棄できなかった、というのが事実でしょう。
◆いわゆる「詰んだ」状況に追い込まれた勝頼 さて、そこに目をつけたのが信長です。 信長はきっと人の悪い笑みを浮かべながら、家康に「高天神城を落とせ」と指示した。そこで徳川は本格攻勢を行うことになり、すると当然、降伏の話が出てくるのですが、信長は家康に「降伏を許すな」と命令する。 本来、そこでは降伏を受け入れるのが普通なのです。それによって困難な攻城戦をやらなくて済む。お互い無用な犠牲を出すことなく、たとえば城主を切腹させる条件で城兵の命は助けるなどして、降伏を受け入れればいい。しかし信長は、あえてその道を断った。 一方、高天神城降伏の可能性が絶たれたことで、武田側の選択肢はふたつに絞られます。 ひとつの選択肢としては、高天神城を救援することです。自分の味方の城が攻められたときに救いに行くことを「後詰め」と言いますが、それを行う。そしてもうひとつの選択肢が、城を見捨てるということでした。 一般論として、リーダーたる勝頼は後詰めを行わなければならない。もし見捨ててしまえば、それぞれの土地を守っている武田領の武士たちが「勝頼殿は、いざとなったときに見捨てるお方じゃ」となり、それまで従属していた武士たちが雪崩を打って離れていくことになりかねないからです。 それを避けたければ、後詰めをするしかない。ところが実際に後詰めのために援軍を出せば、それを織田が待ち構えていることも目に見えている。武田が本隊を出してくれば、織田は当然それを叩きにくる。武田は既に「長篠の戦い」で織田に大敗しているわけで、また戦って勝ち目があるかと言えば、それもない。今回また負ければ、もはや滅亡まっしぐらです。 救援か、見捨てるか。しかし、どちらの選択肢を取っても勝頼にとってはアウト。信長の打った手により、勝頼はいわゆる「詰んだ」状況に追い込まれたのです。
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