俳優・山西惇、車の中で号泣した最優秀男優賞受賞の知らせ。コロナ禍では思い詰め…「役者を辞めようと思ったこともあった」
――受賞が決まったという連絡はどのように? 「マネジャーさんからLINEで来たんですけど、移動中だったんです。『(発表は)今日だな』って思いながら自分で車を運転しているときにLINEが来たから、これは鹿島さん(マネジャー)からだなって。これは『ダメでした』か『受賞しました』のどっちかだなって思って、まずは車を停めたんです。 獲れてなかったら『残念でした』っていうのだけが来て終わりだなって思ったんだけど、獲れていたとしたら、もうひとつ絶対に来るなと思ったわけですよ。『授賞式に関してですが、日付けと会場は~』みたいなLINEが来るだろうって。 でも、最初はひとつだけだったから、ちょっと待ったんです。怖くて見なかった。そうしたら、LINEがもう1回来たので『もう1回来た!これ獲ってるんじゃないか?』って思って。 それで見てみたら、『獲れました』という、めちゃめちゃシンプルなLINEが来ていて(笑)。マネジャーとしては、とにかく早く知らせてあげたいと思ったみたいです。そのあと『つきましては、何月何日授賞式で~』というのがもう1回来ていて。 それで『獲れていた!』って思って号泣しました。俺はこんなに最優秀男優賞が欲しかったんだということを実感して、自分でもどうかと思うくらい泣きました。あまり表立って褒められることがない仕事なので、本当にうれしかったですね」 山西さんから「最優秀男優賞がこんなに欲しかったんだということを実感しました。車の中で泣いています」というLINEを受け取ったマネジャーさんは、『今、山西さんが車の中で泣いている!』と思い、事務所にいたみんなともらい泣きをしたという。 ――奥さまにはどのようにして伝えたのですか? 「一通り気持ちが静まってから電話したんだと思います。『ほらね。この人はおもしろいはずなのになあって、私はずっと思っていた』って言っていました(笑)」 ――奥さまカッコいいですね。お子さんたちは何か言っていました? 「子どもたちは価値があんまりわかってないので、妻がどんなにすごいことなのか、コンコンと説明していました(笑)。パーティー形式での授賞式も4年ぶりだったんです」 ――ここ数年は、コロナ禍もあって舞台や映画も中止や延期になったりしていたので、思いもひとしおだったでしょうね。 「そうですね。あちこちからいろんな声が聞こえるなかで、自分には必要だったけど、自分の仕事は不要不急だったのかとか、『意味あるのか?なくてもいい仕事なのか?』みたいなところまで、ちょっと思い詰めちゃった時期があって。役者を辞めようかと思ったこともありましたけど、妻と子どもたちが常に前向きに支えてくれて」 ――コロナ禍の間はどのように過ごされていたのですか? 「川沿いに住んでいるので、家族で毎日決まった時間に散歩に行っていました。あとはキャッチボールをしたりして。子どもたちは喜んで、めちゃくちゃおおらかでしたね(笑)。一緒に泥団子を作ったりもしていました。 次に井上ひさしさんの『日本人のへそ』という芝居をやることになっていて、その中で東北本線の駅を110何個言うセリフがあったんですね。それをその間に覚えておこうと思ってやっていました。毎日覚えようって。それをインスタにあげればさぼらないなと思って、自分で『今日はここまで覚えました』ってあげていました」
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