平成の日本政治とは?(3)小沢氏めぐる愛憎劇に飲み込まれた30年
非自民の細川政権、突然の国民福祉税発表で瓦解
初の非自民政権の誕生に国民は好意的で、細川内閣の支持率は70%を超えた。その勢いで細川は自民党総裁の河野洋平と小選挙区制導入で合意する。ただし小選挙区制に反対の自民党と社会党の要求を入れ、単純小選挙区制ではなく比例代表並立制となり、少数政党も生き残る可能性が残ったため、政権を取るには連立の数合わせがカギを握ることになる。 経済と軍事で日本に圧力をかけ続ける米国のクリントン政権は、細川政権に対し内需拡大と所得税減税を求めてきた。所得税減税に応ずれば他に財源を確保する必要がある。赤字国債発行をやらない方針の細川は、消費税を国民福祉税として7%に上げる方針を発表した。 突然の発表だったこともあり、社会党と武村正義官房長官は強硬に反対した。細川は求心力を失い、社会党と新党さきがけ(代表は武村氏)が連立離脱に向かう。8党派は内側から崩れ、自民党が東京佐川急便から細川への政治献金を追及する中、細川は突然退陣を表明した。羽田孜がその後を継承するが、少数与党では政権を維持できない。非自民政権は1年足らずの短命に終わった。
自社さ連立で社会党は野党時代と真逆の主張を展開
自民党は社会党と新党さきがけを取り込み、社会党の村山富市を首相に担いで自社さ連立政権を作った。村山は所信表明演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」を表明し、野党時代の社会党と真逆の主張を展開した。 これに国民は驚いたが、しかし権力を握った瞬間に野党時代の主張を変えたことがおかしいのではなく、政権を奪った時に言えないことを主張していた野党がおかしいのである。政権を奪うから野党であり、政権を批判するのもそのためだ。批判のための批判ではなく、政権を奪った後の主張を野党時代から言い続けなければならない。 しかし日本ではあまりにも長い間、万年与党と万年野党が続き、万年野党は政権を奪った後のことなど考えず、ひたすら護憲だけを訴えてきた。そのことが村山政権の誕生で国民の知るところとなった。しかし国民もなかなか冷戦時代の意識から抜け出せない。社会党支持者は村山政権に幻滅し、社会党は見る影もなく衰退していった。そして村山も限界を感じたのか1年半足らずで退陣を表明した。