平成の日本政治とは?(3)小沢氏めぐる愛憎劇に飲み込まれた30年
政治という観点から見た「平成」は、国内外ともに激動の時代でした。国内では「平成の統治機構改革」と呼ばれる政治・行政改革が実行され、政権交代可能な二大政党制をイメージした小選挙区制の導入や、政治主導を進めるために官邸機能の強化が図られました。一方、国外に目を転じると、平成元年にあたる1989年に「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦が終結。それまでの米国・ソ連の東西陣営による二極体制が終わり、世界が新しい秩序と戦略を模索し始めました。 【写真】平成の日本政治とは?(4完)新自由主義の席巻と民主党政権への失望 平成の30年間で日本の政治はどう変わったのか。「令和」の時代に向け何を教訓とするべきなのか。政治ジャーナリストの田中良紹氏に寄稿してもらいました。 今回は4回連載の第3回。平成の政治改革をめぐる自民分裂から小泉政権誕生前までを振り返ります。
政権交代可能な政治へ急進的に改革進めた小沢一郎
米国の言いなりにならないように万年与党と万年野党が役割分担する政治は、冷戦の終結で意味をなさなくなった。同時に38年間も自民党だけが権力を握ってきたことは日本政治に「制度疲労」を起こさせた。 竹下登は平成(1989)元年を「政治改革元年にする」と言ったが、竹下が退陣した後もそれは日本政治が取り組まなければならない課題だった。自民党は党内に政治改革推進本部を設け、後藤田正晴が改革の旗振り役を務めた。しかし現実に平成の政治改革を推し進めたのは小沢一郎である。 2人とも万年与党と万年野党を終わらせ、政権交代可能な仕組みを作る点では一致していた。そのために選挙制度を「中選挙区制」から「小選挙区制」に変える方向性も同じだった。しかし自民党では中曽根康弘や竹下が急激な改革に反対して中選挙区制を支持し、社会党や共産党も小選挙区制が導入されれば候補者全滅の可能性があるため強く反対していた。 戦後の日本政治では反吉田派の鳩山一郎や岸信介が小選挙区制導入論者だった。日本が自立するためには軍隊が必要で、そのために憲法改正しなければならないが、発議に3分の2の議席が必要で、それは中選挙区制では実現しない。そのため単純小選挙区制を導入しようと考えた。しかし野党の反発で断念する。田中角栄も小選挙区比例代表並立制を導入しようとして、やはり野党に潰された。 小沢は小選挙区に反対する勢力を「守旧派」と切り捨て、対立を激化させることで改革を推し進めようとする。後藤田は手法に於いては漸進的で、急進的な小沢に批判的だった。しかし平成の政治改革は、良くも悪くも剛腕をふるう小沢の手法で進められ、平成の日本政治は小沢をめぐる愛憎劇に飲み込まれていくのである。