平成の日本政治とは?(3)小沢氏めぐる愛憎劇に飲み込まれた30年
国対政治仕切った金丸信「こんなこともう続かない」
「55年体制」は自社が表で対立し、裏では手を握る仕組みだった。何が行われていたかと言えば、すべての法案を国会が開かれる前に自社の幹部が仕分けする。議論する前から法案は「成立」、「廃案」、「継続」に分類される。どこで審議が止まり、どこで再開されるかの国会日程もあらかじめ決められた。 ただし自社の議員たちにそれは知らされない。一握りの幹部だけが知る秘密である。一般の議員たちは言われた通りに動く「駒」でしかなかった。これが「国対政治」と呼ばれる日本独特の政治の仕組みである。 「国対政治」を取り仕切っていた金丸信は「こんなことはもう続かない」と私に言った。国対政治の秘密を知る者が、自社なれ合いの限界を肌で感じ、政権交代の必要性を理解していたのだと私は思う。 金丸の考えは自民党を2つに割り、最大派閥の竹下派と社会党右派で1つの政党、竹下派以外の自民党がもう1つの政党になる構想だった。戦前の日本では分配に力を入れ積極財政を行う「政友会」と、成長に力を入れ緊縮財政を行う「民政党」が政権交代していた。それを真似て竹下派と社会党右派が積極財政、それ以外の自民党は緊縮財政を主要政策にし、その2つが交代することでバランスを取ろうとした。 金丸の構想に経団連会長の平岩外四(がいし)が賛同し、社会党の田辺誠委員長を交えて秘密会談が持たれた。自民党には組織も金もあるが、竹下派と社会党右派が作る新党に金はない。金丸が自分の土地を売って資金を作る計画が話し合われた。しかし、その矢先に金丸が脱税容疑で検察に逮捕され、この構想が日の目を見ることはなかった。
選挙制度めぐる対立で自民が分裂、結党以来初の下野
竹下派会長だった金丸の後継をめぐり、竹下と小沢の間に争いが起こる。それが選挙制度をめぐる対立と絡まり、最大派閥竹下派は分裂した。小沢や羽田孜が竹下派を出て羽田派を結成、それが自民党分裂の引き金になる。 1993(平成5)年5月、選挙制度改革をやると言いながら先送りした宮沢喜一首相に対し、野党が内閣不信任案を提出すると、羽田派は不信任案に賛成し、宮沢内閣不信任案が成立した。小沢らは集団離党して新生党を結成。宮沢は衆議院を解散するが、総選挙で自民党は過半数を失う。それでも自民党はまだ衆議院第1党で、他党と連立すれば政権は維持できた。 しかし小沢が日本新党の細川護熙(もりひろ)を担ぎ、いち早く8党派をまとめたため、自民党は結党以来、初めて権力の座から転げ落ちる。その恨みが自民党内に沈殿し、小沢個人に対する私怨となった。