明治39年住職手記を翻刻 護持へ強い思い「廃滅すべからず」 33年ぶり本尊御開帳記念に/兵庫・丹波市
兵庫県丹波市氷上町常楽の高山寺の山本祐弘住職(49)が、33年ぶりの本尊御開帳を記念し、同寺26世住職、高見寛應(かんのう)師が明治39年(1906)に記したと考えられる手記「高山寺史的概観」を翻刻・出版した。同寺の沿革や伝承、歴代住職の事蹟などが記されており、中でも明治元年(1868)の神仏分離令以降の困難な地方寺院の厳しい経済状況が克明に記録され、同寺存続のための策を考えるよう訴えている。 分離令で寺社領は没収、国有化された。末寺は廃れ、上納金を失った。内尾神社(同町三原)の別当として同神社を管理していた同寺のような寺院は、神事に深く関わるため葬儀をほとんど扱っておらず、葬儀収入はなかった。分離令後、経済的に困窮し、全国で廃寺が相次いだ。
同書によると、同寺は弘化5年(1848)に山林が「境内共東西四百八十間、南北八百八十五間御免除地」(約141町6反)あったのが、明治4年(1871)の上地後は「実測面積十三町三反六畝二十歩」と95%召し上げられた。 その後も曲折があり、寛應師が晋山した明治38年(1905)の山林からの収入は「入会共有山二町余歩の毛上(けじょう)(作物、草木)のみなり」とつづっている。 この頃の同寺の財政収支は、過去5年平均で「毎年三十円余りを補充せざれば収支相償せず。これ数理上の事実にして、今後いかにして財政を整理するか緊要なる問題の一つなり」とし、建造物の目録をあらわし維持費用の「策を講ずべき」と残している。 さらに、執筆時の直近の人口統計を持ち出し、郡内187寺院の1カ寺平均戸数を85戸強、人口424人弱と計算し、「今日における本郡経済の程度より考ふるときは、寺院の維持は甚だ困難を感すべきは必然の数なりというべし」と分析。「志士それ眼孔を斗大にして真摯質実に本問題を解決せよ」と訴えている。 天保六年(1835)に氷上郡内に60カ寺以上あった真言宗寺院が廃合の結果、この頃10カ寺になっていた。 経済だけを優先し、統合、合併すべきではないことを説いた上で、同寺は歴史的にも地理的にも、葛野庄(18カ村)の村民の信仰を集めていることからも「決してこれを廃滅すべからず」とした。同寺をなくすことはできない前提に立ちつつ、移転はできない、弘浪山中にある同寺が他寺院を吸収する形で統合することは到底できないとし、「嗚呼、廃合の策は当山に講ずるを得ずとせばこれを成す。果たしていかに」と悩みを吐露。自身と共にこの難題に挑む全国の志士に「来たれ」と呼びかけ、文書を締めくくっている。 寛應師は明治38年に晋山、明治40年、京都市の真言宗各派機関紙「六大新報」の主筆を務め、その後は真言宗京都大学(現・種智院大学)の学監に就任。昭和22年に72歳で没した。同寺33世上井寛圓師らの弟子を育てた。 京都・大覚寺で機関紙の編集経験があり、編集、注釈を加えた山本住職は「極力、原本の記述を生かした。格調高い美文調で、言い回しを理解するのが非常に難しかった」と言い、「平成20年に当山に入り、書庫で原本を見つけて以来、何度も読み返し、いつか活字化したいと思っていた。地方寺院の財政史を知る興味深い資料。御開帳の年に出版できて良かった」と話した。檀家ら関係先に配った。 同寺は法道仙人が天平5年(761)に開いたとされる。昭和9年(1934)の室戸台風で大きな被害を受け、昭和33年(1958)に本堂や山門を現在地に移転した。