YouTuberの論理がZ世代に与える絶大な悪影響 苦言を呈する「アンチ」に「アンチ」する世界観
にもかかわらず、YouTuberに倫理観を教わったZ世代は、自分を傷つける人はぜんぶアンチだと思っている。で、それにはちゃんとアンチ─アンチしないといけない。だって、大事な大事な推しは、そうしているんだもん。 さすがに大げさだと感じるかもしれない。しかし実際に教育現場では、似たようなことが起きている。たとえば、授業中に私語がうるさいという苦情を受けたので学生を注意したところ、注意された側の学生から、逆にこういうクレームが入ったのだ。
「他人を気にしている暇があったら自分のことをすればいいのに。出る杭は打たれる」 「アンチが何か言ってたみたいですけど、でも、私は自分の味方が一人でもいれば、アンチは気にしません」。 なぜこんな物言いをするのか。「推し」がそう言っていたからに違いない。 苦言を呈してくる人はアンチなので、アンチにはアンチしないといけない。このあまりに単純で安易な世界観が若者に着実に浸透しつつあることを、筆者は肌身で感じているし、けっこう危惧している。大学でそうなっているのだから、そのうち職場でもそうなるだろう。つまり、会社でZ世代を注意したら、即刻アンチと認定されるのだ。そんなの正直、やってられない。でも、われわれの社会は、着実にそうなっている。
■「アンチ─アンチ」は人生の指針にはなりえない 世界を推しとアンチに分断するというあまりに安直で、そして場合によっては便利な世界観は、SNS隆盛の現代においていっそう加速している。その背後において、集客によって金を生み出すという仕組み、つまりむき出しのビジネスの論理が加速装置として機能していることは見逃せない構造だといえる。 改めてビジネスの話をすると、ビジネスの世界ではセグメンテーションといって、想定する顧客の属性を細かく区切るのが当たり前である。なおセグメンテーションは、経営学の一分野であるマーケティング学で発展した知見でもある。で、そして、広告宣伝はその顧客だけを向いておけばいい。20代女性向けのサービスは、30代男性の筆者には決して刺さらないし、刺さる必要もない。